メイン州ポートランドからさらに25キロほど南下したあたりに流れるサコ・リバー沿いに、繊維工業の中心地のひとつとして栄えたビドフォードという町がある。1850年に、アメリカ最古の紡績企業のひとつ、ペッパレル・マニュファクチャリング・カンパニーが創業し、以来シーツやタオルなどの家庭用品を主とするコットン製品が生産されてきた。最盛期には地域で1万人もの雇用を生み出していたビドフォードの工場は、その後さまざまな企業買収や合併の波にさらされてきたが、2009年に最後の工場の操業停止が決定し、広大な工場の敷地は建物ごと売りに出された。翌年から、敷地一帯が巨大な歴史的工場建築物や土地を生かしたビジネスセンターと商業施設、居住空間の複合スペース「ペッパレル・ミル・キャンパス」の名で、再開発が始まっている。私たちの訪れた「サコ・リバー・ダイハウス」は、この建物群のひとつにやってきたばかりの染色工場だ。

巨大な煉瓦の建物と煙突を眺めながらサコ・リバーにかかる橋を渡り、雨模様のまま日が落ちかけた夕方、私たちはビドフォードの町に着いた。建物には不釣り合いなほどこぢんまりして見える鉄製のドアから中に入ると、眼前に唐突に、まるで運動場のように大きな、暗いスペースがどかんと広がっていて言葉を失う。今では静まり返っているこの場所はかつての紡績工場で、当時は1200機もの織り機が大きな音を立てて動いていたのだ。

サコ・リバー・ダイハウスの入り口からは明かりがもれていて、人の気配に少しほっとする。なかではオーナーの小さなクラウディアと、白髪の大きな男性ダンが、到着の遅れた私たちを辛抱強く待っていてくれた。

小柄で、目のくりくりしたクラウディアは、もともと法律家として25年ほど働いていた。紡績関連の組織や工場のオーナーたちと仕事をする機会があり、テキスタイルの世界に興味を持った。テキスタイル製品とその生産プロセスを理解しようとして、夫のケンとポートランドの近くで小さなアルパカのファームをはじめたのが2000年のことだ。いまではもうそのファームは手放してしまったが、現在このサコ・リバー・ダイハウスのオーナーとして、夫婦でオペレーションを担当している。

ことのきっかけは、2012年にマサチューセッツ州の老舗ダイハウスが閉まることになり、そこに染色加工を頼んでいた小さな糸メーカーが、代わりを見つけなくてはならなくなったことだった。近隣に、小規模な分量での染色を引き受けてくれるダイハウスを見つけるのは簡単なことではなかったため、その糸メーカーに相談されたクラウディアは、閉鎖する当の染色工場の機械をまるごと買い取って、新たにこの地域で染色工場を始めるというアイデアを思いついた。やると決めたらクラウディアの行動は早かった。同年5月に染色機を買い取り、7月にはこの歴史的建造物の一角を1万8500平方フィート(約1700平方メートル)ほど借りた。彼女が借りた「13-W」は、かつてのテキスタイル工場がダイハウスとして使っていたまさにその場所であり、染色工場としてのインフラが残っていた。さらに、閉鎖したマサチューセッツの染色工場でダイマスター(染色責任者)として働いていたダン・モートンを招き、サコ・リバー・ダイハウスは2013年1月に操業を開始した。私たちが会ったのは、このふたりだった。

オープンの頃について、クラウディアは語る。「染色工場の顧客のベースはすでにあった。というか、操業開始を待っている状態だったから、ともかくできるだけはやくオープンすることが大事だったの」

その後、定年を迎えるダンのあとを引き継ぐために、テキスタイル分野の修士号を持つマリックを2人目のダイマスターに、さらに大学でテキスタイル化学を学んだラーナを染色担当のカラリストとして新たに雇い入れた。その他の作業スタッフを合わせ、13名がここで1日8時間程度、平均して約250キロの糸とファイバーの染色工程をこなしている。きっかけとなった小さな糸メーカーのほかにも、中小規模の糸メーカーからの注文が順調に増えてきた。トップ(コーミングまで済ませた太い縄状のファイバー)も扱っているけれど、主にかせ糸を中心に染色している。

白髪のダンが、柔らかな口調で染色工程の説明をしてくれる。「最初に、サンプルの色味を幾つか準備してクライアントに提出し、色を決める。色が定まったら、カラリストとダイマスターが染める糸の分量に合わせてクライアントの望む色を作りあげ、その基準の色から外れないように、ダイマスターが染色工程の全体を通じて色をチェックするんだ」




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