川瀬敏郎著『花をたてる』
2021年7月20日 新潮社青花の会刊
撮影|野中昭夫 青木登 菅野康晴
装丁|長田年伸
A4判 上製本 箱有 208頁
20,000円+税

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「この国への遺言と思って取り組んだ本」──不世出の花人が15年の歳月をかけた集大成であり、花とは、日本とはなにかという問いに一身でこたえた、偉業というほかない書。『芸術新潮』連載「川瀬敏郎─たてはな神話」(2006-11年)を大幅に増補、加筆。


目次

玄人の花
古層
土/ヒルコ/依代/スサノオ/常若/スクナビコナ/根の国/七枝刀/天の岩屋戸/神饌/荘厳/草木国土悉皆成仏/唐様の美/ハナ
芸能
山をたてる/なげいれ/三具足/花王以来の花伝書/神の木/供花/ハレとケ/風姿花伝/七夕法楽/双花瓶/バサラ/少人の花/室町の美/再生/同朋衆/天地人/禅僧の花/禁忌/桃山の華/草木の風興/さび/入らずの森/花道/ツクヨミ/砂の物/専好立花/稲の国
肖像
空海/西行/明恵/世阿弥/後鳥羽院/源実朝/能阿弥/雪舟/足利義政/一休/珠光/本阿弥光悦/千利休/松尾芭蕉
祖形
宇宙樹/緑/神仏習合/平和/生死/水/縁起/鎮魂/花を生きる
啓示
あとがき



『花をたてる』は、いけばなの起源とされる「たてはな」と対峙したいという、私の積年の思いが出発点となっています。「たてはな」は、かたちは単純ですが、宗教と芸能の境にある際疾い花です。芸能に傾くと形式へ収斂され、「たてる」という本質からは遠退きます。私は、芸能の先にある、生命の始源へと通じる花を求めました。もとより正解などなく、「芸能の先の花」をかたちにするには、私自身が「たてる」を生きるしか道はありませんでした。試行錯誤の連続でしたが、至福の日々でもありました。撮影から15年を経て、「たてる」を生きた軌跡が1冊の本となり、ようやく私の手元を離れる時が来ました。お手にとっていただければ幸いです。(川瀬敏郎)


川瀬敏郎 Toshiro Kawase
花人。1948年京都市生れ。幼少より池坊の花道を学ぶ。日本大学芸術学部卒業後、パリ大学へ留学。演劇、映画を研究するかたわらヨーロッパ各地を巡る。74年に帰国後は流派に属さず、いけばなの原形である「たてはな」と、千利休が大成した自由な花「なげいれ」を軸に、花によって「日本の肖像」を描くという独自の創作活動を続ける。2009年京都府文化賞(功労賞)、13年京都美術文化賞を受賞。著書に『風姿花伝―日本のいけばな』(文化出版局)、『花会記─四季の心とかたち』(淡交社)、『川瀬敏郎 今様花伝書』『川瀬敏郎 一日一花』(ともに新潮社)など。

























玄人の花   川瀬敏郎


白洲正子さんがその著書『日本のたくみ』で、私の「たてはな」を取りあげてくださってから、早いもので40年経つ。白洲さんは野の花が好きで、御自宅に絶やすことなく花をいけていたが、そうした「いれる花—素人の花」とは別のものとして、日本の花の歴史に向きあう「玄人の花」を求めてもいた。

花をいける若造(私のことだ)がいると聞いても、当初は期待しなかったそうだが、それが「たてる花」と知り、もしかしたらと思った、と後にうかがった。それは、白洲さんが幼少より能に取りくみ、能と花に共通する、「たてる」の意味を承知していたからだろう。

あの当時は花に限らず、どの分野も玄人と素人の境がはっきりしていた。「たてる花」は玄人の花、という自ずからなる了解があった。

たてる花の起源は依代であり、時代が下るに従い形式化する。仏前の供花を元とする室町時代の「たてはな」は、後に七つの役枝で拵える「立花」となる。私が小さかった頃は「立華」とも書かれ、極端に形式的、人工的で、大工にでも頼まないと出来ないようなものになっていた。

〈日本で一番古い流儀といえども、徳川末期の立花にかじりついているにすぎない。私は目の前に現れた無名の青年が、それらすべての束縛から逃れ、古典の重荷を脱却して、はじめて花をたてた人の喜びを、生き生きと表現していることに感動した〉(白洲正子「花をたてる」『日本のたくみ』)

久しぶりに読みかえすと、あの日のことが鮮やかに甦る。あれから40年、たてつづけ、いれつづけ、いけつづけ、花は変われども、私はあのときの若造のまま、裸一貫、何も変わっていない。

他方、いけばなを取りまく状況は大きく変化した。『日本のたくみ』の頃は、戦後に隆盛した前衛いけばなが持てはやされていた。白洲さんは、そうした「芸術」然としたいけばなを嫌い、嘆いた。

〈たしかに花の世界は変ってしまったが、それは変るべくして変ったので、その渾沌の中から、今は新しいものが生れなくてはならない。日本には長い花の歴史がある。外国から輸入した思想ではなく、ほんとうの意味で伝統を生かす人間を求めているのは、私だけではないだろう〉(同)

いまは前衛いけばなは影を潜め、「たてはな」がブームである。40年前には考えられなかったことだ。しかしそれを、原点回帰と見るのは早計で、実は厄介な問題を孕む。

前衛いけばなの眼目は個性的表現であり、あくまでも「私の花」であることから、「いれる花—なげいれ」の素人性(私性)に通じる。古典に帰着し得る。

だが昨今の「たてはなブーム」はどうだろう。「たてはな」は本来的に「私の花」ではない。したがって「たてはなブーム」の花が「私の花」である限り、それは「たてはな」ではない。

古典を学ぶことは、無論悪いことではない。たとえば「立花」は形式なので学ぶことができるだろう。しかし室町初期の「たてはな」は、未だ宗教と芸能の境目にあり、簡単な決りはあるものの、形式をもたなかった。つまり「いけばな—芸能の花」以前の花なのである。

「たてはな」は姿としては数本の枝をたてただけなので、技術的には難しいものではない。稲藁の花留めさえ用いれば、素人でもすぐにできるし、それなりに格好もつく。

何が問題かといえば、素人が無邪気に「たてはな」をもてあそぶことで、なしくずし的にそれを「いけばな」にしてしまうことにある。そうした「たてはなごっこ」は、日本の花の歴史を無視し、改竄する悪事とさえ、私には思える。

そもそも「たてはな」は、寺院や書院といった場を荘厳する花であり、そうした場を離れて成立させること自体至難である。この『花をたてる』という本は、私という玄人が生きた証ではあるが、その答えは「私」にはない。だからこそ「たてる」なのだ。

〈私の楽しみは、川瀬さんが年をとって、おじいさんになったときの花。どうしたって年をとれば大きな花材も扱えなくなるし、気力だっておとろえる。あれほどの玄人がなんの枝もつかえなくなって、もういっぺん素人の花をいけたら凄いと思う。お能だってそう。友枝喜久夫さんほどの名手が老いて盲目となり、手もふるえがちで舞う姿は凄いとしかいいようがなかった。だから私は、川瀬さんが七十くらいになっていける花がとっても見たいのだけど、そのときはもうこの世にいない。まあ楽しみのひとつくらい、こっちにおいていってもいいでしょう〉(白洲正子「川瀬さんの花」『芸術新潮』1998年1月号)

いまの私は70を超え、よろず骨の折れる歳になった。白洲さんのいう「玄人のなかの素人」の芸境は、眼利きならではの見方であり、友枝さんもおそらくは晩年まで「玄人のなかの玄人」に徹していたのではないかと思う。ただし、日本の芸の奥深さは、その先にさらに自意識を超えた芸があり、玄人の「素」の凄みが立ち現れることがある。白洲さんが愛したのはその境地だが、しかし、そこに辿りつけるのは、どの分野でも一世代に一人いるかどうかだろう。

玄人と素人の境がなくなるとは、つまり、芸の行きつく先が「私」でしかなくなる、ということだ。それでは芭蕉のいう「一」、日本文化の始まりであり終りである、〈貫道する物は一なり〉の〈一〉に行きつかない。

「たてる」は、玄人の花である。(『花をたてる』より)






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