撮影|菅野康晴/工芸青花
「tokimeki antiques」は、京都を拠点に店舗は持たず、SNSやネットショップを通じて商品を販売する骨董商。店主の岩橋直哉(いわはし・なおや)さんは1967年、大阪生まれ。数年前まで「拙庵(せつあん)」の屋号で、世界に向けて発信する古物商集団「tatami antiques」にも参加し、仮面、遺影、護符、描き人知らずの絵画などディープなセレクト眼は当時から群を抜いていた。2018年には、『工芸青花』のギャラリーで展覧会「骨董の起源」に参加している。その後、屋号を「tokimeki」に変えたのは「日本語英語のようなミックス感が時代に合うのではないか」と考えたからだという。
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──岩橋さんが古いものを好むようになったきっかけは?
岩橋 父親が骨董や焼き物が好きだった影響もありますけど、歴史や戦史が好きで、中学生頃には薬莢とか軍服といった軍装品を買っていました。古着の迷彩服に軍隊仕様の鈍重なウールコートを羽織って出かけたり。そうした布の手触りとか革の匂いは、古いものでしか味わえないものだと感じていましたね。大学で東京に出てアルバイト先の洋服屋で暇つぶしに読んでた雑誌『クロワッサン』に「古道具坂田」が紹介されていて気になって、「アフリカの土偶展」(1994年)を観に行き土偶[上から3点目]を買いました。

──軍装品ではない古物を買ったのは「古道具坂田」が初めてですか。
岩橋 そうですね。でもそれがいわゆる骨董だという意識はまったくなくて。存在感のある不思議なもの、という感覚で手に入れた感じです。

──古いうつわや道具は、いつ頃から買うように?
岩橋 洋服屋の次のアルバイトが中野の漫画専門の古本屋で、その上階に「茜」という美濃、瀬戸の焼き物を中心に扱う骨董店があって通うようになり、木原(注・江戸初期、古唐津系木原窯)の茶碗を買ったのが最初です。そのときはこれはさすがに骨董だな、という認識のもとに買いました。

──大学卒業後はアルバイトをして暮らしていたのですか。
岩橋 大学時代は映画研究部で、卒業後はアルバイトをしながら自主映画を撮っていました。

──どんなジャンルの映画ですか。
岩橋 とくになにが起こるという物語ではないんですけど、コインランドリーで、大学生とイラン人とホームレスのおばあさんが出会うような、出会わないような……というものが1作目。2作目は、1970年代の左翼グループ「東アジア反日武装戦線」をモデルにしたもの。1作目は、王家衛(ウォン・カーウァイ)や侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、北野武らのアジア映画を世界に紹介したイギリスの評論家、トニー・レインズさんの目にとまって、彼の推薦で1994年には、カナダのバンクーバー国際映画祭に招待されたこともあります。

──そんなに認められていたのに映画はやめてしまったのですね。
岩橋 評価された最初のテイストを次回作以降もやることが望まれているというのは分かっていたんですけど、僕にはそれができなくて。映画を諦めたのは2001年くらいかな。決心というか絶望しましたよね。それからかなり経ってさあなにをしようかという時に、古いものは「古道具坂田」と「茜」、e-bayでもよく買っていたし、日本でもヤフオクが始まって、買うだけでなく売ることもできるんだな、と思うようになりました。

──コレクターとして好きで買っていたものを販売したのですね。主になにを?
岩橋 ロシアのイコンとかデルフトのタイルとか、なんでもです。好きなものを買ってまた売って、という具合でそれを仕事にするつもりはなかったけれど、なんとかやっていけそうだと思って、そのうちアルバイトも辞めて。骨董市にかよって日本のうつわや道具など使えるものも売るようになったのは、それからですね。今も店舗はなく、ネットを中心に販売しています。ときどき平安蚤の市やイベントにも出店します。

──SNSの商品紹介文は主に英語ですね。
岩橋 自己流の無茶苦茶な英語ですけど、日本の人なら見慣れている、或いは見慣れているつもりのものでも、海外の人なら未知のものを見る驚きを感じてくれるんじゃないか、と。日本語英語でも伝わればいいし、ものを通して文化がごちゃまぜに交流する感覚も面白そうだし。「tokimeki」という屋号もその感覚でつけました。

──ものを選ぶ時の基準は?
岩橋 原点はまだ字も読めない頃に白黒テレビで見た「ウルトラQ」のぼんやりした記憶ですね。年代的にはアニメ世代なんですけど、僕は「ウルトラセブン」のような特撮の方が断然好きで。なにが好きって、もちろん実際は着ぐるみとしても、巨大なウルトラマンやバルタン星人が実写の街の中にぬっと出て来ちゃうところですよね。「なんじゃこりゃー!」という。映画の凄いところも、作り物なのに真実が顕現してしまうということだと思うんですよね。「そこに在ってしまう衝撃」はそのまま、ものを選ぶ時の衝動でもあります。

──仮面や民間仏は美しいものだと思っている?
岩橋 美しいものというより、存在してしまっているものに対して「なんじゃこりゃー!」と高揚する。思えばそういう初期衝動ひとすじでやってきている気がします。高名な仏師が技術の粋を凝らして作り上げた仏像よりも、素人が見よう見まねで模倣した粗末な仮面や、子供が作る稚拙な山の神に感じ入ってしまうんです。無理やり存在させてしまったカミというか。技術も道具も知識もないんだけど、作らずにはおれない、かたちにあらわさずにはおれない、というやむにやまれぬ思いが本来姿形のないカミをものとして存在させてしまうという。

──アウトサイダーアート?
岩橋 用いられる技術と精神性の高さ、様式の分類と時代における位置づけを重視するのが正統なアートとするならば、僕の好きなものはアウトサイダーアートですよね。でもアウトサイドから見て初めて、じゃあインサイドってなんだ? 本質ってなんだ? って問題が提起できる。例えば僕の好きなものに木や石など自然物をそのままカミに見立てたものがあります。これにはひとつも人の手が入ってない。技術(アート)も様式もない。でもそこにカミを見出してしまう心の働きというのは人間が存在に対して感じる限りない畏怖以外のなにものでもない。これこそアートが誕生するきっかけであり本質ではないか、と僕は思うのです。

──「古道具坂田」からの影響は?
岩橋 既成の価値観に従っているだけではつまらない。知らず知らずのうちに他人が作った権威に追従していないか、ルーチンで生きてないか、見慣れたつもりで本当はものすごく面白いものがあることに気づいてないんじゃないか、ということですね。坂田さんが雑巾やコーヒーフィルターでやったことはそうだったと思います。骨董趣味の中には分類し細分化していく愉しみもあるとは思うのですが、坂田さんは分類される前の「なんじゃこりゃー!」を見せてくれた。ただ、僕自身は「古道具」という言葉に抵抗感があります。「道具」というとどうしても用のもの、役に立つものというイメージがある。僕は得体の知れない「骨董」という言葉のほうにシンパシイを感じるんです。

──岩橋さんは「骨董」概念を更新していきたいんですよね。
岩橋 そうですね……。幸田露伴の『骨董』という文章に「雑多な食材を鍋にぶち込んだ料理を骨董羹(こっとうかん)といった。骨董とは鍋がゴトゴト煮える音、ゴッタ煮ゴッタ汁などというゴッタの意味に当る」というのがありますけど、一つ鍋の中でそれぞれのものが本来持っていた意味や価値がドロドロに煮込まれまじりあったゴッタ煮が僕にとっての骨董なんだと思います。「店を一歩出たらゴミ」という坂田さんの言葉もそうだけど、古いものって所詮ゴミなんですよ。野天の骨董市に行けば片っぽだけの靴の隣に王室御下賜の珍宝が並んでいて、その横に頼朝公幼少のみぎりのしゃれこうべがある、みたいな、古今東西巧拙真贋善悪すべてが平等に不用なゴミとなって青空の下でゴトゴト音を立てている。本物なのか偽物なのか誰にも証明できないし頼れない世界。買うも自由、買わないも自由。その中から自分の好きなものを好きなように選んで自分の中に取り込んでいくという、自由な楽しみなんです。そこでは人の価値観に従うのではなく自分自身でいられる。形式や時代を厳密に分類する古美術的な愉しみ方は、僕にとっては自由さがないのであまり興味がない。それに分類といっても海外では科学的に鑑定しますけど、日本ではほとんどが感覚ですよね。目利きといっても見慣れた分野ではそうでも、例えば初めて見るポケモンカードは見分けられないわけで、ということは、所詮は馴れとコツと好みであって、科学的でもないし美とも関係ない。

──岩橋さんのいう「美」とは?
岩橋 絶対的な美はないと思います。それぞれの好み、ある側面からのものの見方というだけですよね。そしてそれは更新されていく。むしろ更新されないと面白くない。坂田さんは「ゆさぶる」といいますが、まさにそれです。自分の前に、これまでの価値観では捉えきれない衝撃的なものが訪れる。その衝撃こそが美しいと僕は思う。知らなかったものごとが自分の価値観をゆさぶって新しい世界を開いてくれる、またそれによって自分の価値観も更新される、それこそが人間の生きる喜びではないかと。坂田さんの店の並びにある「長谷雄堂」さんで日本の護符や宗教版画を見せてもらったときもそうでした。来世の幸せ、敵の不幸、現世利益、たたりの回避など清濁併せた切実な願いと呪いが混然となったものを前にすると、それをひとくくりに表現する言葉がそれまでの自分の中になにもなかったという体験をするわけです。

──岩橋さんのいう衝動とは、言葉を失語させるもの?
岩橋 そう。言葉にしたとたん未知のものは既知のもの、了解済みのものとして分類されてしまう。聖書の中で人間が初めにやったことは、楽園に住む動物たちにそれぞれの名前をつけたこと。そうやって人間は未知の世界を了解し秩序だてて取り込んでいった反面、楽園を失った。僕は名前がつけられる以前のありのままの世界の姿に驚きたい。仮面の種類のひとつに口で咥えることによって装着する咥え面というものがありますが、そのことによって演者は言葉を発せなくなる。人間でない得体の知れないもの、名前のないなにかになる瞬間に言葉を失う、それはとても象徴的なことだと思います。

──岩橋さん的「骨董」に共感する人は増えているのでは?
岩橋 そう思いますけど、一方で実は正統な古美術の世界のほうが正しいんだろうなという感覚も持ち続けています。なぜなら言葉にする、分類するということこそがやはり人間が人間たりうる正統な営みですから。歪んだものや粗末なものが美しいなんていうのはやっぱり歪んだ価値観なんだと思います。僕らみたいなのは永遠にアウトサイダーでいいんだと思います。

──「なんじゃこりゃー!」の衝撃はいまでも?
岩橋 毎日が衝撃の連続です。毎月見たことのないものに出会いますから。骨董市の真ん中で未知のものを手にして「なんじゃこりゃー!」と叫んでいるのが僕です。でも恐らくそこにいるすべての人がそうなんじゃないかと思いますけどね。ゴッタ煮の「骨董」は本当に楽しい世界です。
(構成・文/衣奈彩子)





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