
4 花をいける

『ひとりよがりのものさし』の連載が始まるきっかけは花だった。
1997年秋、花人・川瀬敏郎さんが懇意の人達のための花会を開いた。『芸術新潮』入社4年目の新米編集者だった菅野さんが取材のために赴いた会場が、坂田さんが千葉・茂原に建てた美術館「as it is」だった。そこで出会った坂田さんと坂田さんの扱うモノに感銘を受けた菅野さんの提出した企画が、その後5年にわたって『芸術新潮』誌上に連載される「ひとりよがりのものさし」となる。
「as it is」での花会の様子も含む『芸術新潮』「川瀬敏郎 暮らしの花をいけましょう」特集号(1998年1月号)には、大地や根から切り離されていることによって死を約束された草花の生命力が、露を打たれてヌメヌメと光り輝いている様が写し出されていた。いけられた花の中に生と死が色づき、大地の代わりにそれらを支える陶磁器や木の籠が、すでに死んで久しく、にもかかわらず在りつづけるモノであることを突き付けられる、そんな存在の不気味さが充溢していた。我々はそれをなぜ美しいと感じてしまうのだろう?
坂田さんより3才年下の川瀬さんは、幼いころから家業の花屋を手伝い、既にその才能の片鱗をみせていたという。しかしそこを飛び出して日大芸術学部にすすみ、学生運動に身を投じる。その後留学したパリでは1年に500本もの映画を見まくる映画青年でもあったそうだ。ヴィスコンティやタルコフスキーが好きだったとのこと。
海外に行くということは外部に出るということだ。それまでインサイダーだった自分は外部に出ることによってアウトサイダーになる。アウトサイダーの自覚を持ったものがはじめてインサイドとは何か、を省みることができる。そしてひとたびアウトサイダーとなったものは二度とインサイダーに戻ることができない。彼は外部を内部、内部を外部として視る視点を獲得した永遠のアウトサイダーになるのである。
川瀬さんと坂田さんはほぼ同時期に日本を飛び出し、アウトサイダーとなってほぼ同時期に日本に帰ってくる(川瀬’74年、坂田’71年帰国)。
〈かたにはまった人生は楽かもしれないがつまらない〉〈不思議なもので、日本人には自分たちの花は外国人にはわからないだろうという気持ちがある。しかし”なげいれ”というのは、世界共通の花になりうるものだと私は思うんです。(中略)それをいけるのは、”日本人”ではなく、たんに”わたくし”なのですから〉(『芸術新潮』1998年1月号特集「川瀬敏郎 暮らしの花をいけましょう」)
もはやインサイダーとして内部に安住することのできない二人は、一個の〈わたくし〉として、それぞれの分野で只一人の道を切り開こうとした。
『ひとりよがりのものさし』の中に今一度坂田さんを問い訪ねてみよう、というこのブログの打ち合わせで、以前伺ったときは言語化されなかった「坂田さんが最後に到達したもの」とは何か、をあらためて菅野さんに問うてみた。その答えは僕がこれまでに聞いたことも考えたこともない、骨董とはなにか? 古いとはなにか? モノとはなにか? に対するひとつの新しい答えだった。
川瀬さんの花会をきっかけに坂田さんと出会った菅野さんが現在主宰している新潮社「青花の会」では、年に1度、青花祭というものを催しており、そこでは川瀬さんの花会が開かれる。昨年、2025年の青花祭で、菅野さんは川瀬さんの様子を見て気づいたことがあった。3日間の開催期間中、川瀬さんはすでにいけおわった花が、はたからは気づかないくらいほんのわずかでも萎れたと見るやなんどでも新しくいけなおしていたのだそうだ。
花人は、膨大なストックの中から選び抜いた1番の花をいける。つまりいけなおされる花は2番手3番手ということになる。しかし川瀬さんに1番の花を捨てる躊躇はなかったという。川瀬さんにとって大事なのはモノとして、かたちとしての1輪の花なのではなく、新しく更新されつづける花の中に、生きる命の瞬間瞬間が顕わされることにあったのだ。かたちとしての花は次々取り替えられても、花のいのちは変わらずそこに咲き続ける。
それを見て菅野さんは気づく。モノが古くなって色や形をかえていくことは更新されていくということなのではないか? 茶渋がついたり、割れて形を変えたりと変化する。それは「味がでる」ということではなく、その変化のたび、古くなるたびごとに新しくなっていくのだと。
稀少であればあるほど、由緒があればあるほど価値があるとされる骨董界。権威や伝統を変化しないものとして奉持する業界と、日本の〈ふつう〉に対して闘い続けた坂田さんが到達したのがまさにこの概念だったのかもしれない、と。
かつてそれぞれに道なき道を切り開いていた川瀬さんと坂田さんが交差した瞬間に立ち会った菅野さんは、28年後に自ら作り上げた場で、再び二人の歩んできた道を交差させたのだった。すでに坂田さんは亡くなっていた。しかし花は、常に新しくここに咲いている。
「古道具坂田」もそうだったが、骨董屋さんでは花をいけているところが多い。骨董屋の商品はつまるところ薄汚れた中古品。赤い花や青い葉っぱがちょうどいいコントラストとなって映えるのだろう。書画の前にいければ床の間のしつらいを、壺にいければ花器としての使用法をプレゼンテーションできるので販売促進効果も申し分ない。それらはデコレーションに過ぎないが、目を楽しませてくれる花ならその程度で良いのだろう。坂田さんにとっても、「飾りの花」とはそのようなものだったかもしれない。では、川瀬さんのいけたような「真の花」はどこにあるのか?
『芸術新潮』には毎号世界のアートニュースを掲載する情報ページがあり、「川瀬敏郎 暮らしの花をいけましょう」特集号にはニューヨークで行なわれたマリーナ・アブラモヴィッチの個展の様子が写真入りで紹介されている。個展のオープニングでは2時間のあいだ、ほぼ全裸の作家自身が、ギャラリーのかなり高い〈壁から突き出た自転車のサドル部分にまたがって、ときおり上部の摑まり棒に手を伸ばして腰を浮かせては2本の足掛け棒に足を乗せる〉(「51歳の体をはったM.アブラモヴィッチ」)というパフォーマンスを繰り広げたとある。
〈当初、美しい容姿を持て余したアーティストの露出趣味? などと懐疑的に見ていた観客も(中略)パフォーマンスの意味が肉体そのものにあるのではなく、意志や克己といった精神性の体現であることに気づきはじめる〉(同)
利休の花とはこういうものだったのではないか。花はただの色どりやカンバセーションピースとしての洒落た語呂合わせとしてではなく、利休の覚悟としていけられていたのではないだろうか。いけられた花を見れば利休を思わずにはいられない。花は美しく飾られたインテリアの一部であれば充分、と考えるものにとってそれは目障りなものだっただろう。花は利休自身であり、一期一会の出会いがその都度新しく更新され続ける茶室、茶会そのものが花だった。
「古道具坂田」もまた、客が来て、客が去り、坂田さんが選んで店に置いたモノが売れ、また新しいモノが置かれて、と変化し続ける。「古道具坂田」という場そのものが花であり、その芯に在って、モノを介して客に影響を与え、自身もまたモノや客から影響を受けて日々変化し続ける、坂田さん自身が「真の花」だったのだ。

坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫内(神楽坂)
