5 ブリキのヒコーキ




骨董に凝る人は車やファッション、食べ物にうるさい人が多い。坂田さんも古い木枠付きのバン型ミニへの憧れを書いている(連載11回目。実際の愛車はコンランがインテリアを手掛けたランドローバーだったとのこと)。自分の身の回り、生活をすべて自分好みに染めずにはおれない心性かと思うが、車は必要悪、ファッションポリシーは汚れてもいい服装、美味いものは松屋の牛丼と梅もとのかき揚げ天そば、という僕に今回のテーマである身の回りへのこだわりについて語る資格はないと思うので、前回の「花をいける」で引用されていた長田新太郎の言葉について考えてみたい。

〈古い時代のもの程優れているのは何故か。(略)昔の人の作品は神々を喜ばすために作られたものであった。ところが次の時代、西欧ではローマ、我国では鎌倉時代の作品からは人間をよろこばすためのものとなった〉(長田新太郎『古美術の形と心』/創樹社美術出版)

ここで本質的に問われているのは優れた作品が生み出される動機であって時代区分ではないのでそこは無視して、僕が尊敬する現代日本の藝術家である橋本倫さんの言葉も引用したい。藝術は本来神々に捧げられたものだった。だから簡単に壊れるものでは困る。ゆえに藝術家は藝術を成立させるためにもてる限りの技術を尽くして絵具やカンバスといった物質と格闘しなければならない、という内容だった。長田新太郎の言葉へのアンサーでもあり、神々なき時代の藝術家の覚悟を述べたものとして胸を打つ。

橋本さんはまた「物質の勝利と非物質の栄光」と題した講演の中で、ギリシアの藝術家が質量の塊である大理石をもって、女神ニケが空中より降り立たたんとするいかなる質量も存在しない瞬間をあらわしたこと、人間が自らの手で大地より掘り出した物質の中に非物質である天空の精神を顕現させ得た、という奇跡こそが藝術なのだ、と語られている。藝術とは誰かを喜ばすためのモノではなく、事象を写すことでもなく、人間が世界を(再)創造し得るということの証であり、またそれを称える人間賛歌なのだ。

〈神々を喜ばすため〉のものと〈人間をよろこばすため〉のもの、についてもう少し考えてみたい。ドイツの哲学者ハイデガーは藝術作品についてこう述べている。

〈作品がいっそう孤独に形態の内に確立されてそれ自体の内に立てば立つほど、そして、作品がいっそう純粋に人間に対するすべての連関から解き放されているかに見えれば見えるほど、それだけいっそう単純に、そのような作品が存在するという衝撃が開けたところに進入し、そして、それだけ一層本質的に、不気味で途方もないものが衝撃的に打ち開かれ、これまで安心できると思われてきたものが衝撃的に打ち倒される〉(マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』/平凡社ライブラリー)

興味深いことに同書では、同じくヒトの手によって作られるモノでも、(藝術)作品の創作と道具の製作は厳密に分けられている。(藝術)作品とはそれが他の何かのためではない、それ自身のみのものとして存在してしまう、という事実が目立っているという衝撃であり、道具の〈それは有用性の中に消滅してしまう〉というのだ。

ハイデガーの言葉を長田新太郎の言葉に代入すれば、〈人間に対するすべての連関から解き放されている〉藝術は〈神々を喜ばすため〉のもの、〈使用のための準備として形づくられている〉道具は〈人間をよろこばすため〉のもの、と言い換えることができるかもしれない。

一方、屋号に「古道具」を掲げた坂田さんは、花入れとして採り上げた〈朝鮮の祭器〉と〈フランスの砥石入れ〉をそれぞれ〈神のための道具〉、〈用に徹した(中略)「人間をよろこばすためのもの」ではない〉〈ふたつの道具〉とし、〈そこに美しさの秘密がかくされている〉としている。果たしてそうなのだろうか?

冒頭の車やファッションの話に戻ろう。道具である車や服に「美」を感じるというのは柳宗悦のいう「用の美」、また「機能美」と言い換えてもいいかもしれない。ファッションを考えれば如実なことだがそこには自分の身を飾り、生活を飾ってくれる「装飾美」というものもあるだろう。ところで極めて主観的かつ取り扱い注意でありながらこれまで無造作に使ってきた「美」という言葉について、この機会に美とは何か? を簡単に言えば、見て快適なこと、であろう。花はキレイ、猫はカワイイ、それ以上のものではない。美は浅い。美は思考停止である。美、についてはいずれまた近いうちに取り組むとして、坂田さんと道具について集中したい今はひとまず、美とは所詮その程度のもの、と留意していただければ良いと思う。

さて、用の美、機能美、装飾美というからには、大前提としてそれらは用をなし、機能し、装飾するものでなくてはならない。しかし坂田さんが採り上げた錆びた祭器と砥石入れはいずれももはや用をなさない、機能を失ったモノである。用や機能の美というものが宿るのであればまずは現役のモノであるべきだ。その次に用や機能を容易に想起させる、すなわちまだ使われていない新品、または現役を終えたばかりの中古の状態。最後に壊れたり錆びついたりしていても、機能を想起させ得る原型を何とか留めているモノ、までに限られるはずだ。粉々に割れた陶片に用の美はないが、それらを継いだフランケンシュタインのような茶碗はかろうじてそれを想起させ得る。つまり用の美には1等、2等、3等のグラデーションがあり、用の美の1等を追求するならば例えば今まさに大量の人間を殺しまくれる最新鋭の超高性能ミサイルに感じるべきであり、B-29や日本刀なんぞは、もちろんまだまだ用をなせたとしても文字通り「骨董品」に過ぎないのだ。

もし用の美を最高に感じたいのであればそれらは現役の道具でなければならない。では錆びた祭器や砥石入れに感じるのは失われた用途へのノスタルジーとしての用の美なのか? それも違う。

「ひとりよがりのものさし」第11回に、坂田さんが、憧れの古いミニに乗ったコレクターの家に飾られていた「作品」の作者を訪ねたら、それは現代美術の作品ではなく〈奈良朝の古材と江戸時代の鍬〉だった、という記述がある。この場合坂田さんがその「作品」に感じたのは用の美だっただろうか?

第12回に採り上げられた細長い鉄の棒きれを、我々はうなぎを漁るための道具であるから美しいと感じるのだろうか? もしその用途を知らずしてなお美しいと感じるなら、そのどこに用の美などというものがはいりこめるというのだろう? 用の美とは所詮後付けの知識による言い訳に過ぎない。少なくとも古いモノに感じる美とは関係がない。

それでは装飾美というのはどうだろう。なんかカタチがいい、線がキレイだ、色合いが部屋にマッチする、飾って目に楽しい、生活が豊かになる云々。これまでの経験を通して、この業界では使えるものがもっともよく売れているという実感がある。いわく皿、いわく酒器、いわく飾るためのオブジェ。それらは生活を素敵にいろどってくれる装飾品だ。ではなぜそれらが無印良品の新品ではなく、茶渋で汚れ、割れ欠けが継がれた古いモノでなければならないのか? それらが歴史に紐づけられているから? ならば勉強が必要だろう。知識がなければ美しく思えないのならば。それらが量産品ではない唯一性のモノだから? ならばレアもののポケモンカードやエラーコインと同じだろう。珍しいから美しいと思えるのならば。それらが高価であるがゆえに見るたびに自らの富を再確認できて悦に入るから? それは素直にうらやましい。

先のハイデガーによれば道具の本質である〈有用性〉は〈使い古され、使い減らされる〉ことによって失われていく。〈有用性〉を失った道具はもはや道具ではない。それが元は道具であれ、量産品であれ、藝術作品であれ、素人の手すさびであれ、古いモノとは、骨董とは、そこに付与されていた用途、意図、意味、歴史、それらすべての価値が失われたむきだしのモノのことだ。いつどこでだれがなんのために作ったのか、という余計な知識が拭い去られ、それらは物質からヒトが作りだしたモノ、ただそのものとなる。錆びた祭器や砥石入れは、〈使用のための準備として〉付与されていた〈有用性〉を失ったモノ=古物=ゴミとなったことによって、〈人間に対するすべての連関から解き放され〉た〈不気味で途方もないもの〉へと変容した。〈不気味で途方もない〉むきだしのモノそのものと対峙する、その戦慄こそ我々が古いモノに惹きつけられる動機なのである。

ではなぜモノそのものに戦慄するのか、この問題に本格的に取り組むこともいったん宿題として(たぶん第21回「脱穀機と蜂集め籠」あたりまで)、今回のテーマ、「ブリキのヒコーキ」から生まれる問いについて考えてみたい。そこには上記の問題を考える上でのヒントも見つかるのではないか。その問いとはこれである。玩具とはなにか?

A・チャダーエヴァ『シベリア民族玩具の謎』(恒文社)という本にこんな記述がある。

〈われわれがおもちゃとして見慣れているものが、(中略)子どもたちの遊び道具であると同時に、もっとしんけんな目的、すなわち拝むという目的のために使われている〉〈少なくともいくつかの民族においては、崇拝の対象物と玩具のいくつかは一致する〉

日本でも神像や仏像が村の子供たちの玩具になっていたという話があるし、青柳瑞穂も子供の玩び物となっていた伝承がある鎌倉末期の古面の話を書いている(『ささやかな日本発掘』)。信仰のモノが玩具となること、これらは骨董として玩ばれるモノとも響きあう何かがあるのではないかと思う。

坂田さんが採り上げたブリキの玩具もまた、空を飛ぶ飛行機や疾走する車のカタチだけを稚拙に再現しただけにもかかわらず、いやむしろ有用性からは遠く離れた稚拙な造形であるからこそ、そこには飛行機や車の本質、イデアともいうべき何かが宿されている。その何かとは空を飛び、地を疾走するモノへの畏怖と憧れ、そして空を飛び、地を疾走したい、というヒトの切なる願望をほかならぬヒト自身の手が叶えた、ということへの頌歌であり、ペラペラのブリキのヒコーキやスポーツカーという「似姿」に、その機能ではなく、形づくられた願望を見出す心性は、神像にカミを見出すそれと何ら変わりはない。

坂田さんは子供(と子供の眼を持つ人々)を喜ばすためのブリキの玩具と、神々を喜ばすローマ・鎌倉以前の作品を等価にみていただろう。神々なき時代にも藝術家は、デザイナーは、職人は、それぞれに能力の限りを尽くし、思いを込め、物質と取り組み続けている。石の塊に女神ニケを顕現させたのと同じく、ヒトはブリキのヒコーキの中に大空を飛ぶ願望を現した。「物質の勝利と非物質の栄光」! それは藝術であり、人間賛歌である以外のなんであろうか? 蛇足ながら人間の願望は「良い」ものばかりではない。玩具には戦車や銃のそれもある。

蛇足ついでに玩具の玩具性は新品により多く宿るのであるが、坂田さんが採り上げるモノが古いモノである理由、それは坂田さんが玩具のその奥、モノのモノそのもの性に感じて選んだのからであることは付言したい。坂田さんのこだわりは、我々と同じく「古い」モノにある。

写真は「ひとりよがりのものさし」連載時(『芸術新潮』1999年1月号−2003年5月号)に撮影したフィルムです(筒口直弘撮影)。掲載図版とは別カットの場合もあります


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坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫soko内(神楽坂)


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