4 デバイスと身体





美大受験生だったころ、デザインと工芸の違いみたいな話のなかで「工芸家は道具から自分でつくる」と言われてへえ凄いなと思ったことがある(確かにデザイナーで道具から自分でつくる人は少ないかもしれない、が、制作環境が当たり前にデジタルデバイスになり、プログラミング教育が小学生から始まることで、ソフトウェアをカスタム化していくという意味で道具をつくる人が増えるのではないかとも思う)。デバイスは道具。道具にふれ、つかうのはわたしたちの身体。

自分はデザインの仕事をするときMac OSでAdobeのソフトウェアを動かして作業することがほとんどだが、それらを使っているときは肘から先とMacBookの底面がシームレスに繋がっているという感じがしていて、あれをしようと思うと即座にMacに伝わっている、むしろ自分がこうしようと思うよりちょっとだけ先にMacが動いているんじゃないかというときさえある。あの角を右に曲がろうと思ったときに足をどう動かすかとか腰をどう捻るかとか考えないうちにすんなり曲がってしまえるのと同じで、ショートカットキーや一連の操作は身体がすっかり覚えていて、人に説明しようとすると逆に、あれ、自分はなにをどうしてたんだっけ、と戸惑うことになる。となるとMac Bookは自分の体の一部といっても別におかしくなさそうな気がする。道具が身体の一部になっている感覚。

自分ではない人が使い込んでいるPCをさわると異様な感覚を覚えたり、ぜんぜんうまく操作できなかったりするのも、他の人の身体の一部を借りていると思えばストンといく。魂が別の人の身体と入れ替わってしまう話というのは昔から色々とあるが、ほんとうにそうなったらものすごく最初は動きづらいに違いない、というのを自分は他人のPCを借りることで想像する。

あるとき、人工知能には創造性が宿るのか、みたいな話をしていて、人工知能は身体性がないのが今のところネックなのではないか、と自分が発言したら、相手が「でも、例えばスマートフォンとかって、おでこに目(インカメラ)がひとつついていて、後ろにも3つとかついていて(カメラ)、下に口(充電コネクタ)と耳(マイク)があって、手と脚はなくて、1日酷使するともう無理動けない(充電切れ)と主張してきて……」と、確かにそういうふうに描写されるとそれはもう身体という気もしてくる。人工知能も、大量に稼働するコンピュータやサーバを使って学習させられまくっていると聞くと、缶詰めになっている受験生みたいだなという連想をしてしまうし、機器類が発する二酸化炭素量が多すぎて環境負荷がささやかれているというニュースを見ると、人工知能は仮想空間のものなんかじゃなくて現実空間のものなんだなとも思う。

インターネットやWi-Fiも、なんとなく仮想空間のものとつい考えてしまうが、ケーブルと機器をひたすら大量に繋いでいったものの先に電波が漂っているものだと考えると身体性ぽさを感じてくる、ひょろりとしたヘビみたいなものが大量に世の中にあって、そのヘビの身体の先から気みたいなものがそれぞれ浮遊しているというか。ヘビは普段の生活では隠されることが多いが、電波や信号が行き交う祭りでもある音楽系のイベントなんかにいくとその存在をまざまざと感じて生々しい。

ちなみに自分はこのブログの文章をいつもiPhoneで記入しているのだが、iPhoneが指の先の自分の身体の拡張という感じはしていなくて、別個のシステムをお借りしているという感覚を持っている。油断していると細かいルールが変わるし、ちょこちょこ新しいことができるようになるし、小さくて操作しずらくて、実際に利き手には筋肉疲労が溜まるし、ということはそのくらい長く付き合ってるということでもあるのだが、いつも「ちょっとだけ頑張って合わせている」、道具というよりは友達とか仕事相手っぽい存在なのかも、と考えると、よりいっそうiPhoneが生き物っぽく思えてたのだった。先日発表されたAppleのARヘッドセットとは、いったいどんな感じの付き合い方になっていくのだろうか。1ヶ月前まではあんなものいらないだろうと考えていたけれど、もしかしてそうではなくなるのかもしれない、とも思ったりもし始めた。


今日の一曲:ミツメ/忘れたい

https://www.youtube.com/watch?v=qcX8DUttpRM&feature=youtu.be


今日の一文:オリヴァー・サックス『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』

わたしはもともと右利きなのだが、いまは左手で文字を書いている。一ヶ月前に右肩を手術したので、右手を使うことを禁じられ、使いたくても使えない。不器用にのろのろとしか書けないが、それでも一日ごとになれて楽になる。適応し、学習しているというわけだ。ただ書くだけでなく、ほかにもいろいろと左手を使えるようになった。それに、吊っている片腕のかわりに足の指でものをつかむのにもなれた。腕が使えなくなって数日はしじゅうバランスを崩していたが、いまでは前とちがった歩き方を覚え、新しい平衡感覚を習得した。異なる行動様式、異なる習慣が生まれたのだ……この特定の領域では、異なるアイデンティティを獲得したといってもいい。同時に脳の内部でもプログラムや回路に変化が起こっているにちがいない。シナプスのウェイトや接続、信号が変化しているはずだ(現代の脳科学ではそこまではつきとめられないが)。(吉田利子訳)


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