5 解体と結合





数年前に事務所を構えていた建物が売りに出されていたのは知っていた。外壁からは雨水が染み込み雨漏りがするような旧いビルだったが、赤い階段が好きだった。買い手がついたらしいという話のあと、解体がはじまってるよ、と知人に教えてもらってから、見に行こうと思いつつ10日間ほど過ごしてしまった。行けたときには、小さなビルだったからすぐだろう、と思っていたが本当にあっけなくなくなっていて、目の前に剥き出しになった敷地を見て記憶よりひとまわり小さいなと感じた。

引越しなどで部屋からものを引き上げると、がらんとした空間を広く感じてもいいのに、逆に小さい空間になったなと感じることが多くて、それはなぜだろうと思っていたが、建物がなくなると敷地も小さく感じるのだった。狭さと小ささは違う感覚なのか。容積に対しての情報量が激減するからだろうか。情報が多いとその関係性を無意識に読み解いてしまうから、存在感が増すのかもしれない。

そういえば、昔、デッサンで自分の顔を描くという課題をやったとき、だいたい実物と同じ大きさに感じさせたかったらひとまわり大きめに描いたほうがいい、と教えられたことがある。やってみると確かにそうで、たくさん描き込んだつもりでも実物の情報量よりはどうしても少なくなるから、どうも小ぶりに見えてしまう。さらにそこに存在感を宿すには、情報量を詰め込むだけではだめで、何かのまとまりや関係性を見つけだして2次元の上に演出しないとならない、それをどうやってやるのか、と探るのがデッサンやクロッキーの役割のひとつだった。

自分のこの雑文もデッサンやクロッキーみたいなもので、文はなんとか書き散らせているが、回ごとの文と文の関係性がまだ築けていない気がする。なのでどうも存在感が出ない。1年続けたら出てくるだろうという楽観的な展望を持ってはじめたが、そろそろ考えたほうがいいのかもしれない。が、こっちかあっちかわからない状態でただただ探るという状態を楽しめているのは自分としてはありがたい。ブログというのはそういう行為が許されやすいメディアだと感じてしまう。

が、本はそうではない、とされている。本を企画するときはそこに何らかのまとまりや関係性が必要とされていて、本をつくる人はだいたいそれを練って抽出して1冊にタイトルをつける。そうしないと読む人に伝わらない、と考える。が、そうだろうか。本というのは紙を綴じ束ねたもので、それはひとかたまりの「もの」になる。そうするとなぜか本を読む人は勝手に、おもいおもいにその「もの」の内側や外側に関係性をつくり出してしまう、という作用があると自分は感じる。読む人によって関係性の結びかたは異なる。ものにはそういう作用がある。そのゆるやかな作用を自分は希望だと思うし、信頼する。




今日の一曲:Morrissey/Reader Meet Author

https://www.youtube.com/watch?v=oCR8T5YFHg4


今日の一文:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』

さらに私は, 1920年代のロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちがオブジェクトという言葉を使うときに付きまとうコノテーションを活性化させたいと思っている。ロシア構成主義者と生産主義者たちは, 通例, 自分たちの創作物を芸術作品ではなくオブジェクト(事物, 構成物, 物体)と呼んだ。(中略)今日, より多くのアーティストがニューメディアに向かいつつあるのに, その諸要素や, 構成, 表現, 生成に関する基本的な戦略を体系的に, 研究所でやるように研究する気のある者はほんのわずかしかいない。とはいえ、そのような研究こそ, 1920年代のロシアとドイツのアヴァンギャルドな芸術家たちがヴフテマスやバウハウスのような場所で, 写真, 映画, 新しい印刷テクノロジー, 電話通信といった当時のニューメディアを調査する際に引き受けていたものなのだ。(堀潤之訳)


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