9 回答と応答





聞きたいことがない。

ChatGPTが話題になり始めた頃、アカウントを作成して入力を待つ空白のスペースに対面し、自分がまず気がついたのはそれだった。

自分は普段の会話でもイニシアチブをとるのがあまり得意ではない。質問し、回答をもらう、というより、あ、金木犀の香りですね、とか、これ美味しいですね、とか、朝晩は肌寒いですよね、とか、身の回りのなんでもない情報をたどたどしくピックアップしながら会話を醸成していく、ゆらりと生まれる場の空気を縫いながら会話する、そういうのが好きだ。もし尋ねたいことがあったとしても、今日はやめておこうかな、など、そのときの流れで訊けなかったりもするし、想像していなかったようなことを聞けたり自分が喋ってしまったりすることもある。まどろっこしいようにも思うが、会話というのはそういうものだという気もする。

何かものをつくることを考えるときも、似ている。なんとなく自分の生活に漂うとまどい、いらだち、よろこび、なにかしら一瞬心が動いたこと、そういう破片のテクスチャを色々と集めておいて、何かお題がふっと手渡された(それは実際に誰かから手渡されるときもあれば、誰かわからない誰かから流れ着いたものを自分がキャッチするようなときもある)、そういうときに、たくさんある破片を拾ってそれをどう形づくるか考え出す。

ChatGPTの入力スペースにはそういう周辺情報が少なすぎて、少なすぎるのに、「会話せよ」という圧力を感じてたじろいでしまう。もしなにか具体的に知りたいことがある場合、インターネットを開き検索をかける、ということは頻繁に行う。それはまったく抵抗なく行える。検索エンジンでもSNSでも、ノックした先には膨大な接続先が広がっていて、そのことに安心するし、そこではいろんな人がいろんな声色で喋っていて、しばらくたゆたっていられる。答えはひとつではないし、たくさんの情報のなかから自分がひとつ選び出すのはとりあえずの暫定的な答えだ。それでいい。

DIC川村記念美術館で開催されていたジョゼフ・アルバースの展示を見に行ったら、彼は、芸術教育の第一歩として「まず素材を知ること」を最重要項目としていたという話があった。目的はなく、素材と手を戯れさせて、そこからどういう形やテクスチャを生み出すことができるか、学生自身が探す。紙や針金のような身近な素材を触って、素材から引き出されるフォルムをたくさん知り、それをどう配置するとどういう効果が生まれるか知る。それを繰り返して、経験をストックし、分節化する。それぞれの素材の違いや得意分野・不得意分野を手を通して学んでいく。ひいては、自分の得意不得意の傾向も知っていく。

その展示にはワークショップのための部屋があり、けっこう広いスペースを割り当てられていて、来場者がアルバースの課題にトライした結果が貼り出されていて、とても見応えがあった。そこには、たくさんの人の発見があって、発見が連鎖する美しい光景があった。「色を利用して透明性を生み出す」というパートでは、与えられた白い紙に色紙を貼っていって、色と色の重なりで透けて見える色彩構成を行うのだが、その仕上がった紙を壁に貼るためのマスキングテープにまでそれを適応している人がいて、すごくいいなあと思った。







教えられたことは身につかない、自分で発見していくのが学びだ。それは手っ取り早い方法ではない、数年後、数十年後に効いてくるものかもしれない。そういう遅効性の方が信じられる、すぐわからない、けれど何か引っ掛かるものがある、そういうものの方が、つくる意義があると自分も考えてしまう。

と、思いながら今日も、久しぶりにアクセスしてみたChatGPTの前で呆然としている。


今日の一曲:YO LA TENGO / Our way to fall

https://youtu.be/bOylOEGY9M4?si=_a8CIQssuR62y387


今日の一文:下西風澄『沈黙するAI、沈黙しない生命』

僕たちが生命や意識のシステムを入出力のモデルとして理解しようとするのは、それが最も限定され、単純化され、観測しやすい状況であるからであって、むしろシステムを入出力として理解するために単純な状況を想定していると言ってもいいだろう。ChatGPTとの会話はその意味でAIの典型的な振る舞いをよく表している。だが人間におけるリアクションとは、入力に対して出力を返すことではなく、持続的なコミュニケーションのなかの反応のひとつだ。
あるいは、たとえ生命のリアクションが入出力だったとしても、生命には絶えず入力と出力が持続していて、これが絶えることはない。沈黙ももちろん入力のひとつだし、ちょっとした気温の変化、姿勢による疲れ、夕方になって光量が落ちること、会話している相手の目線の変化、お腹が空いて胃が動くこと。これら全てが生命にとってはなんらかの刺激(入力)であり、明示的に記号化できないあらゆる入力が無限に生命に流れ込んでいると同時に、それに対するなんらかの出力としての反応がある。(中略)このような入力と出力の区別さえないような、絶え間ない刺激の連続こそが生命にとっての自律性を可能にしている。入力と出力が厳格に区別され、入力と出力の有無が明確にコード化されている人工知能には自律性がない。


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