7 経過と愛着





「長く使える」というマジックワードがある。ものを欲しいと思ったときに、決めかねる。それが自分の生活にフィットするかどうかちょっと読み切れない。が、欲しい。そういう気持ち、それを後押しする理由/言い訳、が必要、という場面というのがあるとする。そういうとき、ものの価格が自分にとって負担にならないとジャンプしやすい(が、結局のところあまり使わなくて後悔する、ということになると、その経験は次の買い物の枷になる)。ではものの価格がちょっと自分にとって負担になる場合はどうか。そういうときに効力を発揮するのが件のワードである。「長く使える」

ということに気がついてから、「長く使える」には慎重にならねばと思っていた。「長く使える」ものは「そのもののポテンシャルとして長く使える(丈夫だとか、飽きのこない意匠であるとか)」ということが主張されがちだが、ものの耐久年数が長いことと、実際にそれをわたしが使い続けるかどうか、には実はあんまり関係がない。生活というのはぐにょぐにょと変わる。30年使えますよ、と謳うものがあったとしても、わたしが30年同じスタイルでやっていくかどうかはわからない。ひとり暮らしを始めて「やかん」を買ったとする。やかんは20年以上使うこともありうるアイテムだとは思う。が、引っ越しをすることになり、新しい部屋がIHコンロだったとする、やかんはIH対応ではない。もしくは、一緒に暮らす人数が増えて容量が対応しきれない。または、わたしの価値観が変化し急にその「やかん」が色褪せて見えるようになった。等々。そういう時に切り捨てられるのは、新しい生活の方ではなく、ものの側ではないだろうか。大抵。

それを乗り越えてもつかわれつづけるものとは一体なんだろう。自分が今まで一番長くつかったものは、タオルケットだ。幼少期に母が見繕ってくれたもので、空と芝生と建物のようなイラストがプリントされていて、その絵柄を好きになったことは特になかったし、物心ついてからは「これは自分では選ばないな」とうっすら思っていた。が、特に上質な素材というわけではなかったと思うその生地の表面が、毎日くるまれて眠ることでいつしか自分にとっての精神安定剤になり、その生地をたゆませてできる襞を指で挟んで撫でるその手触りが自分はとても好きで、眠ってしまうまでずうっとそれを繰り返すのが習慣になっていた。30年以上撫で続け、擦り切れて向こう側が透けてみえる部分がいくつも現れ、洗濯を繰り返すせいで手触りもボソボソしてきて、実家を出て2回目の引っ越しのときに母に頼みクッションカバーに仕立て直してもらったのだが、3回目の引っ越しの時に迷いつつ処分してしまった。

服をつくっているMITTANというブランドがあって、最近、本づくりをお手伝いした。彼らが根幹とする指針がいくつかあるなかで、特に「修繕」に焦点をあてた本だった。MITTANには洋服の修繕をするメンバーがいて、小さな穴の補修から服の染め直し、なんなら用途変更のアレンジまで請け負ってくれる(靴下をクッションカバーに仕立て直した例もあると聞いた)。彼らはそうやって修繕した服をアーカイブとして写真に撮っていて、それをまとめて一冊にしたいという相談だった。「長く使える」のための「直して使う」という行為の打ち出しは最近ちらほら耳にするが、服作りのブランドとしてそれを真正面からやっているところはあまりない。

彼らが修繕するやり方には、日本の東北地方などでかつて行われていた「ぼろ」「刺し子」などが参照元としてあって、傷んだ襟元や空いた穴に別の生地をあて、ひと針ひと針縫い込むことで補強したりする。新しいものを手に入れるのが難しく、選択の余地なく仕方なしに行われていたその時代の行為のディテールに魅力を感じてしまう罪悪感が自分にはちょっとある。自制しなければものが溢れてしまう時代にモタついている自分が、相当にもののない時代の人のものの使い方を「素敵」と感じること。

が、その直され使われてきた布の「もの」自体としての迫力というのは確かにあって、無数の手や身体の痕跡と布が一体化したその様子に圧倒されてしまう。修繕されたMITTANの服のディティールにも新品の服にはないどぎまぎしてしまうようなニュアンスがあって、こういう服を将来手に入れたいと考えるあまり彼らの服を買う人が出てくるかもしれないと思う。それは倒錯でもあるが、そうしたいがために長く使い、長くものと付き合うことの感覚をそこで識るというのは、ひとつの貴重なきっかけなのかもしれない。

あのタオルケット、わたしの指先の感覚に今も残るあの触感をまとった布を捨ててしまったことを自分は今はとても後悔している。クッションに仕立て直したのも失敗だった。穴が開いても気にせず使いつづければよかったのだ。代わりに手に入れた真っ白なタオルケットは5年経っても目に眩しくシンプルで清潔だが、まだよそよそしい。愛着ということを知ったのはあのタオルケットのおかげだった。


今日の一曲:Linus of Hollywood / thank you for making me feel...better

https://www.youtube.com/watch?v=GRggVGUfBQc


今日の一文:Wolfgang Tillmans『Freedom from The Known』

ティルマンスの作品において、人間のかたちは主要なモチーフである。肉体は、力強くかつ脆弱に、セクシュアリティと欲望、そして私たちと他人との関係として表現される。このアーティストの抽象的地点において、身体ははじめから差し出されてきた。(中略)《armpit》(1992)はデリケートにカールする髭と髪の毛のイメージで、クローズアップすることによって抽象化される。(中略)《sweaty back》(1996)、《balls from behind》(2002)、そして《sunset feet》(2004)もまた抽象的な身体の例だ。多くのしわくちゃの服の写真、日常のジーンズやショーツ、水着、Tシャツ。ティルマンスは表現のなかに抽象を発見してきた。が、ここでは身体の不在を提案しよう──《Faltenwurf》(1989-現在)である。(筆者訳)


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