
6 アフリカの石像

かつて「古道具坂田」でアルバイトをした若い作家から個展の案内状をもらっていたことを思い出した坂田さん。会場となっているのが銀座の有名なギャラリーであることをいぶかしく思いながら訪れてみると、そこはギャラリーの地下で、〈誰もいない会場の入り口に、彼はずいぶんと気負った風情で両足を踏んばって立っていた〉。
坂田さんはこうした作家の発表の場を〈裸の真剣勝負〉とし、〈作家の人達が裸で会場に立つのなら、僕は遅ればせながらフンドシいっちょの気構えで立ち続けたい〉と続けている。
自ら作品を作り出す作家に比べて骨董商とは、〈作られたものを選択するという、どこか間接的なもの〉。文字通り他人のフンドシで相撲をとる世渡りへの忸怩たる思いがユーモアにくるまれた、「ひとりよがりのものさし」らしい表現だ。とはいえ作り出すか選ぶかにかかわらず、この回は坂田さんからの、何におもねるでもなく、誰に頼るでもない、〈自分の内にある思いをしっかりと見据え〉るひと全て、そして自分自身におくるエールでもあったのだろう。
そこで選ばれている〈ブルキナーファソ国の石像〉について、坂田さんはさりげなく、〈墓標という人もいる〉と付け加えている。
〈この無冠の石像を見て、まだ無名の、しかし前途ある、若い作家を思った〉
無冠、というのは外からの評価を顧みず我が道を往く、という意味であろう。しかし前途ある若者を思うにあたって墓標とはこれいかに?
昔見た東田直樹という作家のTVドキュメンタリーで、がんの宣告を受けたディレクターが、自分は先祖から受け継いだ「命のバトン」を次の世代に引き継いで行けないのではないか、という苦悩を打ち明ける。それに対する東田の答えはこうだ。
〈僕は人の一生はつなげるものではなく一人づつが完結するものだと思っています〉
〈命というものは大切だからこそ つなぐものではなく完結するものだと考えている 命がつなぐものであるなら つなげなくなった人はどうなるのだろう バトンを握りしめて泣いているのか 途方にくれているのか それを思うだけで僕は悲しい気持ちになる 人生を生き切る 残された人はその姿を見て自分の人生を生き続ける〉(NHKスペシャル 「自閉症の君が教えてくれたこと」 2006年)
墓標とは、死者が確かに生きていた、ということの証として作られるモノだ。〈自身の内にある思いをしっかりと見据え、具体的な形として皆の前に提示し、結果を個人として背負って行く〉人生を往くものへのエールとして、これ以上ふさわしいモノがあるだろうか。しかし坂田さんがこの石像に込めた思いはそれだけではない。
僕は2011年の東日本大震災の際、ボランティアとして津波にあって泥をかぶった写真を洗浄する作業をしたことがある。海水や汚泥によって腐食したプリント上のイメージは、汚れを拭おうとする指のわずかな動き一つで簡単に消え去ってしまう。根こそぎ津波に奪われた地域にとって、1枚のプリントに残されたその脆く儚いイメージのみが、ある人がここに生きていた、ということの唯一の証拠である可能性があり、それがあっけなく消え去ってしまうという体験は、汚泥に埋まった家を掘りおこしていたときに、土の中からピンボケの花嫁が写った婚礼のスナップ写真が現れたそれとともに身震いに値するものだった。
プリントからイメージが拭い去られるように、アフリカの石像からもだれがなんのために作ったのか、というその意味が、数百年の歳月によって拭い去られ、遠く離れた極東の片隅で売買の対象となりさがっている。誰かが生きた証としては儚く空しいことは、石で作られたこの像も脆いプリント上のイメージと変わりはない。
しかしこの石像はただ独りここに在り、立ち続ける、もはや誰が誰のために、何のために作ったかのも忘れ去られた石像は、付加されていた意味や価値、人間との連関性や有用性の全てを失い、只のモノそのものとして無為の虚空に佇んでいる。
とはいえ、本来込められていた誰かの想いや意味が根こそぎ剥ぎ取られ、ただのモノそのものとなったからこそ、極東の骨董商はこの石像に新たなイメージ(祭祀用なのか墓標なのか)を上書きすることができ、つまり意味が与えられ、すなわち売買の対象たりうる骨董品、になったのではないだろうか。
あらかじめ与えられていた有用性を剝ぎ取られゴミとなった瞬間、モノはむきだしのモノそのものとなる。意味を失いながらも確かにそこに存在するモノそのもの=ゴミ、に新たに値段をつける=意味を与えることが骨董商の仕事であるならば、まさに骨董商とは、何よりも最初にむきだしのモノそのものに対峙する仕事である(べきだ)。それが転売ヤーと骨董商を分ける唯一の矜持ではないだろうか。転売ヤーが見るのはモノそのものではなく外からの評価=相場だけなのだから。
骨董商が転売ヤーでないならば、モノと対峙することは相場や常識(ふつう)に頼れない孤独な作業であるだろう。モノそのものが只独り在り、立ち続けるものであるならば、それに対峙するものもまた只独り立ち続けるべきだ。それが作家であれ、骨董商であれ、誰であれ。それが坂田さんがこの石像に託した思いだろう。今一度東田直樹の言葉を掲げたい。
〈人の一生はつなげるものではなく一人づつが完結するもの〉〈人生を生き切る 残された人はその姿を見て自分の人生を生き続ける〉

坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫soko内(神楽坂)
