
7 葉書と文机

〈「ひとりよがりのものさし」の連載が決まったとき、坂田さんのタイトル案は「僕達の選択」だった〉(菅野康晴『生活工芸と古道具坂田』/新潮社)
僕達の選択! なんとストレートな! このエピソードを聞いたとき、まるで森田童子の『ぼくたちの失敗』を思わせるその青臭さに意表をつかれると同時に、「ああ、坂田さんは若かったんだなあ!」という感動に襲われた。もちろん年齢のことではなくその感性と姿勢のことである。菅野さんが前掲の文に続けて、〈戦後民主主義的な連帯志向を感じないでもなかった〉と書いたように、右向け右で突き進んだ戦争の惨禍を経てなお変わらぬ日本の自己欺瞞性、夜郎自大性、付和雷同性に対して、これからは自分の眼と頭と心をもって自らの人生を選択していくんだ、という、戦後民主主義の申し子としての坂田さんの気負いが伝わってくるようだ。
それにしても〈僕達〉とは誰のことなのか? 狭義にいえば今回採りあげられている、坂田さんがその眼と生き方を信じた作家や友人、同業者や先輩たちのことだろう。広義にいえば上記のように、大勢に迎合することなく一個の〈わたくし〉であろうとする人、への親愛と励ましの意味を込めた坂田さんからの呼びかけなのだろう。
僕が「古道具坂田」に出会ったのは1994年のことだった。バブル絶頂期に大学を卒業し、就職することもなく、洋品屋の小さなチェーン店でアルバイトをしていた。客が来ない店に一人だけなのをよいことに、『失われた時を求めて』や『ローマ帝国衰亡史』など長いものを読みまくり、それでも暇なので隣の書店で片っ端から物色した雑誌の中に『クロワッサン』という女性誌があり、そこに「古道具坂田」が紹介されていたのだ。そのときの『クロワッサン』編集長は、1970年代初頭の『anan』に「陶芸の世界」という記事を企画し、『Olive』編集長をつとめた後に『Pen』や『FIGARO japon』といった各雑誌でアートや骨董を採りあげ、引退後は骨董屋を開くことになる蝦名芳弘という名物編集者であったことはのちに知ることになる。『ひとりよがりのものさし』45話「ティースプーン」で、〈さすが日本の古美術で鍛えた百戦錬磨のツワモノ〉と紹介され、ヨーロッパへの仕入れ旅行に同行し、〈連日飲み、語らい、刺激を受け続けた夢のようなわが青春の一ページ〉〈僕が熱く想うあの人〉と坂田さんに言わしめたまさにその人でもあったそうだ。
『クロワッサン』は、「結婚し主婦となって家庭を守り子育てをする」という従来の日本的価値観に甘んじない、「自立した女性」を読者層に想定していたが、世間ではそうした女性の生き方を揶揄する「クロワッサン症候群」という言葉が流行語になり、同タイトルのテレビドラマまで作られた。戦後民主国家を標榜して50年を経てなお、あらかじめ敷かれたレールを外れ、おのれの道を行かんとするものへのバックラッシュがきつかった当時の日本の状況がよくわかるが、それは今では変わったと言えるだろうか?
とはいえ翻っていえばそれだけそのような生き方への関心が強まっていたということでもあり、また雑誌という媒体が現在では想像もつかないほど社会に対する影響力を持っていたこともわかる。そしてそのように影響力のある雑誌、それも既存の価値観に同調しない自立したライフスタイルを標榜する雑誌に「古道具坂田」が採りあげられたことは象徴的な出来事だった。ちなみに前年の1993年には『別冊太陽 日本骨董紀行5 東京の骨董屋さんⅡ』に坂田さんと「古道具坂田」についての本格的な紹介記事が掲載されている(青柳恵介「骨董屋さんの主張」)。
僕が不思議に思い続けていることのひとつに、坂田さんの語りがある。「古道具坂田」を訪れた客に対して坂田さんは何時間でも話をしてくれた。骨董業界に「オヤジの語り(騙り)を買うな」という警句があるとおり、この商売において客を煙に巻く売り口上は必須のビジネススキルとはいえ、坂田さんの語りは少し様子が違っていた。僕のようなお金のない客に対しても、ときには後からきた客をほったらかしにしてまで「美とは何か?」という抽象論を語り続けることは、商売のためとしてはあまりにコストパフォーマンスが悪すぎ、単に話好きだったというにはあまりにも度を越していた。この疑問を菅野さんにぶつけると、「布教、だったのではないか」とのこと。
菅野さんは自著『生活工芸と古道具坂田』の中で坂田さんの軌跡を、1994年までを前期、2006年の松濤美術館での『骨董誕生』展までを中期、以降を後期と分け、〈九四年のas it is開館を機に、坂田美学も完成した〉と記述しているが、1973年、拾った椅子を200円で売る店の開店から骨董商として異例の個人美術館を開くまでの1994年までは21年もある。その長い間、閉鎖的な骨董業界に属さないインディペンデントな骨董屋として生きのびるためにも、自立した生き方、自立したモノの見方を共有する同志、〈僕達〉を増やすための地道な「布教」が不可欠だったのかもしれない。しかしその「布教」は一方通行なものでは決してなかった。
ドイツロマン主義時代の作家、ハインリヒ・フォン・クライストに「話しながらだんだんと考えを仕上げていくこと」というエッセイがある。決まった考えや思想などというものは人の中にあらかじめあるわけではなく、口に出して話していくうちに形づくられていくものなのだ、という内容だ。
このブログではたびたび、坂田さんがおのれ独りの道を歩んだことを強調しているが、人は、まして既に作られたモノを扱う骨董屋が文字通り一人でいることはできない。「古道具坂田」に並べられたモノは、既に誰かが骨董市で並べていたモノなのだから。そうした仕入れ先の露天商たち、守旧的な価値観にとらわれない同業者や友人のみならず、「古道具坂田」を訪れる感度の良い客からも坂田さんは多大な影響を受け、彼らとの対話を通して日々揺れ動き、変化し続けていく中で〈坂田美学〉は鍛えられ、〈布教〉の言葉も研ぎ澄まされていく。
〈社会、経済すなわち「公」のゆたかさが、「私」の声もつよく、太くしたという面が、あの時代にはたしかにあった〉と『生活工芸と古道具坂田』に記述されているように、『クロワッサン』が「古道具坂田」を採りあげた1994年には、自立した生き方を模索する〈わたくし〉や〈僕達〉が繋がりはじめていた。それは『クロワッサン』の母体である『anan』がフランスの女性雑誌『ELLE』のライセンス誌として創刊された1970年──「古道具坂田」誕生とほぼ同時期──のころから培われてきた、個人を大切にする考え方がようやく実を結びはじめた、と言い換えることができるかもしれない。彼らが「古道具坂田」に惹きつけられたのは、そこに置かれたモノばかりにでなく、なぜ〈僕〉はそれを選ぶのか、なぜ〈私〉にとってそれが良いのか、という思想を説く坂田さんの言葉に、だったのではないだろうか。いまや坂田さんの語りは「古道具坂田」の立派な目玉商品だった。それが既成概念のたこつぼを打ち壊し、未知の世界を探求する人間の自由な試みである藝術を扱う雑誌編集者のアンテナにひっかかるのは時間の問題だったといえよう。
〈週明けすぐに目白の古道具坂田へいった。物も空間も、(中略)それまで記事にしてきたものとはちがっていた〉〈大袈裟でなく、価値観すなわち人生がかわった〉〈あの日、坂田さんの話を一時間くらい、もしかしたら二時間くらいきいていたのかもしれない。店をでて、編集部にもどり、まっすぐ編集長のデスクへいって、連載をやりたいとつげた〉(菅野康晴『『生活工芸と古道具坂田』)
そうやって菅野さんは坂田さんと出会い、坂田さんは菅野さんと出会った。『芸術新潮』は1950年の創刊号に井伏鱒二の「掘り出しもの」が掲載され、その後も青柳瑞穂や白洲正子が執筆するなど骨董を含めた国内外のあらゆるアート事情を採りあげる総合的な藝術情報誌であり、そんなメインストリームのメジャー誌に、我が思いを述べる機会を与えられた坂田さんは大いに期するところがあったのだろう、「ひとりよがりのものさし」の連載にあたって『芸術新潮』という雑誌自体を変えてやろう、という意気込みを示していたという。それは『芸術新潮』という権威が採りあげた美の規準を絶対視する読者に揺さぶりをかけ、人が良いというモノではなく、自分が良いと思うモノは何か? そしてそれをなぜ良いと思うのか? を問い直させようとするものだった。
とはいえ雑誌での連載は「古道具坂田」というホームでの「布教」とは勝手が違っており、坂田さんの思いを文字に変換するには菅野さんの手助けが不可欠だった。坂田さんは自分の中にある思いを菅野さんに語り外面化することで、菅野さんは坂田さんの語る言葉を消化し、内面化することで、二人のやりとりの中で言葉は文章として紡がれ、「ひとりよがりのものさし」に結実していった。「ひとりよがりのものさし」は、坂田さんと菅野さんによって話しながらだんだんと仕上げられていったのである。
〈あのころはほぼ毎月(ときには月二で)as it isへいっていた〉〈坂田さんは物の美の相対性(不確実性)について言及しつづけている目利きだ〉〈その意味で、私にとって、as it isの時間は「絶対」だった〉(同)
菅野さんもそうだがあの素晴らしい写真を担当した筒口直弘カメラマンも当時20代。「ひとりよがりのものさし」が初めての連載だったそうだ。筒口カメラマンは使用2カットの撮影に4~5時間をかけたという。撮影とはそういうものだと思っていた坂田さんとその間話をすることができたのはラッキーだった、と菅野さんは回想する。そうして坂田さんと対話を続けるなかで菅野さんと坂田さんの仕掛ける新たな特集も生まれていった。2001年4月号「骨董の目利きがえらぶ 現代のうつわ」特集では骨董界の大店の店主たちに「究極のうつわは手のひら」と言い放つ坂田さんと「魯山」の大嶌文彦さんをぶつけ、最後まで話が嚙み合わないまま(対談の様子を写す写真を見ても、もう着ているものから違う)、いかに従来の骨董界が形而下的なつまらないことしか語れないかをあぶりだした。
2005年7月号「日本民藝館へいこう」特集ではその当時骨董界からさえも保守的・時代遅れとみなされていた日本民藝館を、品川にあった現代美術の個人美術館である原美術館と並べて〈両館の理念、志に、心を動かされた〉(「ピュア民藝派宣言」)と坂田さんに言わしめて高く評価し、民藝館の収蔵品と無印良品などの現代のデザインを接続した。坂田さんのパリでの仕入れに同行取材した2009年4月号「パリと骨董」に坂田さんが寄稿した文のタイトルは「ゆさぶる」。この一言ほど坂田さんがやろうとしたことを表している言葉はないように思う。
山口信博、中村好文といった坂田さんの同志も参入し、〈僕達の選択〉が誌上を席捲した。読者は『芸術新潮』に新しい風が吹くのを感じた。いうまでもなく僕もまたそうした〈僕達〉の活躍ぶりに興奮して見入っていた読者の一人だった。不思議なことに「古道具坂田」で坂田さんと交わした会話の内容はほとんど覚えていない。会話とはそういうものかもしれない。たばこの煙のように、会話の中で発された言葉はとりとめもなく浮かび消え去っていく。口承文化が一時的・集団的・情動的であるのに対し、文字文化は恒常的・個人的・思索的なもの。坂田さんの言葉は文字として書きとめられてはじめて、今も〈僕達〉を揺さぶり、勇気づけ、考えさせ続けるものとして残ったのだ。もしその言葉が菅野さんとの出会いによって残されなければ、坂田さんもまた「むかし目白にセンスのいい骨董屋があったよね」で終わっていたかもしれない。つまり坂田さんは二人いて、それは「古道具坂田」の坂田さんと「ひとりよがりのものさし」をはじめとする『芸術新潮』における坂田さんで、後者の坂田さんのほうが圧倒的に重要なのだ。
いまや蚤の市やSNSでは錆びた鉄の板やベコベコに凹んだアルミの洗面器が恰好よく並べられ、また売れている光景があたりまえになった。選択の幅が広がったように見えながら、ただ単に昔良いといわれていたモノが、坂田さんが良いといったモノと入れ替わっただけのようにも見える。それが〈僕達の選択〉とでもいうのだろうか? 坂田さんが良いといったのはモノに対してではない。『ひとりよがりのものさし』の前書きに書かれているとおり、〈自由な眼と柔らかな心〉を持って 〈自分のモノサシに油を塗り、使い込んで柔らかくして〉〈自分自身を確立し、歩こうとする道を明らかにすること〉に他ならない。〈僕達の選択〉とは選択された結果としてのモノのことではない。〈一人一人のモノサシ〉を持つことを怖れない、という覚悟と自負のことなのだ。
〈坂田さんと会っていなければ、『工芸青花』のような本も作っていなかったはずだ〉(同)
社員編集者として、坂田さんと二人三脚で〈僕達の選択〉を『芸術新潮』誌上に問うた菅野さんは、2014年、ほとんど一人編集の会員制クラス誌、という未踏の試みを始動させる。『クロワッサン』が「古道具坂田」を採りあげた1994年から20年、かつて雑誌が持っていた社会に対する影響力は日に日に小さくなりつつあるように見える時代においてこの新しい挑戦、自分が良いと思うモノや生き方を選択するのだ、という、それは正しく〈僕達の選択〉にほかならない。
『クロワッサン』が掲げた自立した生き方、『芸術新潮』誌上に繰り広げられた自分のモノサシを持つ、という坂田さんの生き方、それらは今も、ひとり生きる道を往く〈僕達〉の背中をそっと押している。
坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫soko内(神楽坂)
