*この連載は seikanet(骨董通販サイト)の関連企画です

3 「古道具坂田」的





10月初旬。読売ランド前駅まで。先月とは打って変わって空気がからっと乾いて、歩道橋から臨む空が高くて雲が薄い。小松さんが店を出さなかったら、小田急の沿線とは縁のない人生だったろうなあと妙な感慨がわいたのですが、そう思った端からある記憶がよみがえってきました。中学校の頃、クラスの中川くんに付き合わされて、関東近郊のアイドルグッズの卸しの店まで、彼が当時ファンであったアイドル(たぶん相楽ハル子か大西結花)の写真を缶バッジに加工してもらいに行くはめになったのですが、その最寄り駅がたしか小田急の登戸だったのです。そんなことのためだけに、わざわざ登戸まで連れ立っていく意味不明なエネルギーの発露がいかにも中学生的なのですが、そういうわけで、実は思いもかけず小田急線的なものが自己の思考形成に大きな役割を果たしているのかもしれない、とも思ったのでした。

さて小松さんが定めた今回のテーマは、坂田的な物。古道具坂田の眼がこれからどのように受け継がれていくのか、それを考える契機にしたいとの思いがあるようです。扱う品物から見受けるかぎりでは、小松さんと坂田さんはずいぶん遠い距離にありそうですが、そもそもの出発点が古道具である小松さんにしてみれば、坂田的な選択眼は、物を見るときの一つの尺度として今も在り続けているものなのかもしれません。

お店のウインドーに横付けしてあるテーブルに、古道具坂田のアイコン的品目とも言えるうなぎ取りが置いてあったのですが、小松さんはそれを手に取ると、「これは坂田さんは買わないやつ」と、のっけから意外な発言です。曲線の具合や金味を吟味したら、坂田さんの選択からは漏れるだろうというわけです。今となっては、うなぎ取りもひとつのブランドとして確立しているから、うなぎ取りであれば何でも拾い上げられているけど、扱う以上はもう一歩踏み込んで、物の背景にまで言及してほしいと。

背景というのを、他の個体との差異を裏づける「知識」と言い換えてみると分かりやすいでしょうか。いや、よけいに分かりにくいですか。知識とはとりもなおさず言葉なのですが、それこそ「言葉」と「物」を俎上にのせて論を展開するなんて、あまりに風呂敷が広がりすぎて、収拾がつかなくなりそうです。たいてい坂田さんのことを考えていると、いろんな問題系に考えが接続してしまい八方に拡がって、手が付けられなくなりがちです。ここはとりあえず、新宿的な世俗性からよみうりランドの牧歌性を経て箱根湯本の大自然まで走る、小田急線的思考を駆使するしかありません。そんなものが本当にあるのか分かりませんが。

そもそも坂田さん自身が言葉に重きをおかないというか、物の理解に知識は要らないというスタンスの人でした。半分は資質的なものから来る態度で、残りは戦略的な方便かとも思うのですが、そう言いながら坂田さんは、物に対する裏づけとして、その背景をしっかり摑んでいたはずです。なので、坂田さんの片面だけを真に受けて、感覚だけで物と向き合うことの純粋さを良しとする素朴な態度は、ある種の自然主義とも言う気がします。その是非をどう問うかは今はさておき。

とにかく坂田さんが世に出たのは、著書『ひとりよがりのものさし』によるところが大きいだろうし、それはつまりそこに書かれた言葉の力によってだと思うのです。言葉があって、物があって、はじめて坂田的な物の見方という概念がこの世に在ることが世間に知られたわけです。だから、坂田さんの内的要求がいったんは退けた「言葉」を、物に別角度の光を照射するために再導入するという、この考え方は小松さんらしいリアリズムに基づいたものだと思います。物の全的な良さを一挙に摑むのに言葉は邪魔になるという考えは、ある局面においてはそのとおりだと思いますが、流れゆく思考を繋ぎ留めて、つぶさに物と対峙するには言葉は必須の道具なのですから。



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