*この連載は seikanet(骨董通販サイト)の関連企画です

5 古面





何度も読売ランドに通っているうちに、この地を第2の故郷と呼んでもいい気分になりはじめているのですが、そのわりには駅前のマクドナルドと歩道橋以外には何も認識していません。そこで今回初めてhonograとは反対方向に歩いてみました。 

マックの並びにはドトールがあり日高屋があり、その向かいには京樽と新宿さぼてんのテナントが入ったスーパーがあります。回り込むように左に折れると、小さな川が流れる上にコンクリートの橋が架かり、商店街のアーチの向こうには山が望めます。クリーニング屋があり薬局があり、その奥にはセブンイレブンの看板が見える。つまり要素だけ並べてみたなら、どこの郊外駅前とも異なるところのない、いたって凡庸な風景とも言えるのですが、どこか牧歌的な風情に安らぎをおぼえるのは、我が節穴の目であっても、他の駅前とは似て非なる微細な差異を感じ取っているのかもしれません。

さて今回のテーマは面。かねてから何かひとつ持ってみたいと思っているものの、なかなかこれぞというものに出くわさないし、出てもまず自分の資力では手の届かないジャンルです。

このたびのhonograの設え、小松さんは好きな物ばかりを並べたと言いました。おしなべて骨董屋とは好きな物を並べる商売ではないのか? と言われそうですが、「好き」にはたぶん2種類あるのです。商いを続けるなかで学習し身につく後天的に獲得された「好き」と、誰に教わるともなく己の天稟が自然に摑み取る「好き」という。

今回は後者の「好き」、さらに言えば「好きの元」を並べたとのこと。九州から出た奉納面、料治熊太旧蔵の土俗面、面の他にも神馬や狛犬、朽ちた臼など。こんなのだけ売って店をやっていけたらいいですよね、と小松さんは言うのですが、つまりこういう商品構成では通常の商売はまず成り立たないわけです。桃山陶の酒器とか上手の李朝陶磁とか院政期の仏教美術とか、その折々に世の大勢の欲望に叶った売れる筋というのがきっとあって、そういう物を主軸に見せるのが、骨董屋の甲斐性である、との考えが世の通り相場なのかもしれません。

小松さんの父上の実家が大分にあるということで、夏休みの里帰りでは、小松少年はお父さんに連れられて、県内の寺社仏閣巡りについて回ったといいます。すでにその頃から仏教美術への他と異ならんとする鋭い勘所を育みはじめていた、とかいう、立志伝の前半を飾るようなエピソードは特になく、分からないながらもとにかくくっついて見ていたそうです。中学2年のときに連れていかれた由布院の空想の森美術館で見た、壁面を飾るたくさんの面には、今も忘れられない衝撃を受けたそうです。ちょっと検索してみれば、今でも館長の高見乾司氏の解説が書かれたサイトを見つけることができます。これらの神楽面や王面や鬼神面などが壁を埋め尽くしているのを目の当たりにしたならば、たしかに子供の魂の深いところに深い畏怖の念を植えつけたろうと想像します。

この少年期の体験が、後の骨董屋としての選択眼の形成に大いに一役買っているなどと小松さんが言えば、それなりに人を説得できる回想録にもなりそうですが、そうたやすく因果を閉じてしまっては、人が自分の裡に知らぬ間に養い培っている「好き」のダイナミズムを矮小化してしまいそうです。こうして手元に来るようになって、初めてこういう物を自分は好きなのだと気づいた、と小松さんは言っています。得体の知れぬ己の根源と、今まさに出会い直したのだ、と言ってみたい気になります。

店に並べられた、最大公約数的な品揃えとは真逆の、いわば小松さんの「私性」を剥き出しにした物どもには、少年時代の彼の夢が濃密に表れているようです。20世紀フランスの思想家バタイユの「文学と悪」という論考のなかに、「文学とは......ついに再び見出された幼年期である」というテーゼがありますが、まさにこれを骨董において体現したかのような品々です。悪とは、善悪二項対立の単純な道徳概念としての悪ではなく、善という枠だけでは捉えきれない、大いなる力への意志の源といった感じでしょうか。

読売ランドの安らぎに満ちた牧歌的な町並みが、honograを中心にして悪の魅力を湛えながら、謎めいた煌めきを放つ場となればどんなにおもしろいだろうという妄想を抑えきれなくなってしまいました。



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