*この連載は seikanet(骨董通販サイト)の関連企画です

8 続・年画





「ジブリと宮﨑駿の2399日」の話をもう少し。前半、宮﨑駿と高畑勲の確執と友愛が、いろいろなシーンをつないで映し出されていました。撮りためた素材を作為的に編集した映像でしょうから、あまり深入りせず、駿の妄念や勲のえげつなさをゴシップ的な興味で楽しんでいればいいものを、途中から骨董業界になぞらえて我がことに引き寄せてしまい、自分にとってはなかなかスリリング且つしんどいドキュメンタリーでありました。クリエイターと道具屋では抱える事情がまるで違うでしょうが、どの世界にも通じる愛憎伴う人間関係というのはあるはずで、出会いによって宿命的に生じる人の業のようなものの典型像を見たようで、心の深いところを抉られた気分でした。

宮﨑駿が1941年生まれ、高畑勲が1935年生まれ。1930年代というのがまた、ジャンルの枠組みを壊し、そこから新たな表現の地平を切り拓いた才能を多く生んだ時代です。物故存命問わず挙げれば、大江健三郎(1935年)、蓮實重彦(1936年)、トマス・ピンチョン(1937年)、エルヴィス・プレスリー(1935年)、ジャン=リュック・ゴダール(1930年)などなど。いかにも傍若無人な創造性を発揮した神話的な色彩を帯びた面々ですが、あの恐るべき『かぐや姫の物語』を作り出したクリエイターとして、高畑勲もこの系譜に連なる者たちの一人であると思います。素晴らしきものを生み出すためには、〆切を破ることをなにものとも思っておらず、それに伴う周囲の損失などは眼中にもない人。そう嘯くことでアドバンテージを取ろうなどという了見ではなく、本当になんとも思っていないのが怖ろしいところです。一切の妥協を許さず「理想を具現化する」ことを金科玉条に掲げ、生涯それを貫いてしまった、そういう人間が隣り合う世代で同じ社内にいたら、その抑圧はときに創作に刺激として作用し、ときには苦痛以外のなにものでもなくなるはずです。

ついで、といっては失礼になりますが、ロンドンギャラリーの田島充さんが1936年生まれ、古民藝もりたの森田直さんは1933年生まれ。物を作り出すことと選び抜くこと。業種は違えども、なにか野太い生命力を己の仕事に響かせようという、時代の共振のようなものがこの世代にはあったのか、と考えてしまいます。

いつまでたっても小松さんが出てこないですね。年画の話をしましょう。年画の起源は、桃の木の板に神像を描き、門口に掛け魔除けとした「桃符」にあると言われています。日本でも古事記のなかに、イザナギがイザナミからの追手を桃の実を投げて撃退する話がありますが、魔を祓いさらに長寿をもたらす力を備えた植物として桃を珍重する風習は、中国からの伝来です。発生当初は護符としての霊木そのものを尊んでいたのが、時代を経るにしたがいオリジナル信仰が薄れ、印刷された複製にも価値があるという通念が世に行き渡るわけです。刷り物としての年画で現存最古とされているものは宋−金代の「四美図」だとのこと。四大美人を画題にしたもので、必ずしもメンツが確定しているわけではないのですが、西施、王昭君、貂蟬、楊貴妃が描かれることが多いようです。風俗画としての意味合いが強まりますが、厄除けや招福の願いを込めて家の出入り口や部屋の壁に貼られました。「多福多寿多子」や「揺銭樹」や「大竈王」など、一般に知られる多色木版刷りの年画の生産が始まったのは明代以降になります。天津郊外の楊柳青鎮という地で、かなり盛んに制作され流布したのですが、浮世絵のような作家性が牽引する技術の昇華は見られませんでした。

今回小松さんが見せてくれたのは、清代以降の制作と思われる多色刷りの年画です。技術的発展や芸術的展開を見せずに連綿と受け継がれていく年画のようなものに不思議さを感じると小松さんは言います。稚拙さへの思い入れという以上に、何か得も言われぬ力に惹きつけられるのでしょうか。この年画が市場に出てきたとして、今これを買ってみようという人がどれだけいるのか。市場の実状は売れ筋の奪い合いに終始するのが当然のなりゆきです。が、誰も欲しがらなかった物に付加価値を添えて、欲望を発生させるのがこの仕事の醍醐味であることを小松さんは胸に秘めています。先日現代美術館で見た横尾忠則の絵には、たしかに年画の生気がみなぎっていました。そう思うと、このぺらぺらの紙一枚がとんでもなく価値ある物に思えてきて、今のうちに何枚か横流ししてもらえないか、と小松さんに打診してみたくなるのです。これはほんとのついでですが、横尾忠則は1936年生まれです。



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