*この連載は seikanet(骨董通販サイト)の関連企画です

10 続・牛王宝印





趣味が多種多様に分断して、それを語る共通言語がなくなったと言われる昨今ですが、その割に骨董趣味に関しては嗜好の傾向が一つ所に偏っている気がします。骨董を買う人の食指を動かすのはまず使えるものであり、とりわけ飲酒に使うぐい呑みや盃の人気はとどまることがありません。この酒器人気、元をたどれば、小林秀雄や青山二郎、白洲正子、野々上慶一ら昭和文壇を取り巻く骨董好きの面々が、茶ではなく酒を介しての付き合いに重きを置いたことに端を発しているのでしょう。彼らが手にし、通り過ぎていった徳利や盃は、今なお垂涎の的です。博物館や美術館に陳列されるほどの美術品扱いには至っていなくて、超逸品の粉引や唐津は無理でも、それに準ずる何番手かの物であれば、ことによったら手に入るかもしれないという、涎を垂らすに足る欲望を掻き立てるものが酒器にはあるのではないかということです。名物茶碗などはすでに十分に美術品化したものとして社会的に認知されていて、今さら取り付く島もないけど、ぐい呑み一つならば、己の眼の発見が介在する余地があると錯覚させてくれる愉しみがあるわけです。

昭和文士の骨董をめぐる喧噪がいつからあるのか分かりませんが、しばしば神話として語られるのは小林秀雄の逸話ですね。青山二郎に連れられていったとある大店で見かけた、李朝の鉄砂瓶に魅せられて、買ったばかりのロンジンの時計と交換して持ち帰ったというものです。そこから青山二郎を師匠として小林の骨董遍歴が始まるという。それが1940年から1941年にかけてのことだそうですから、80年以上を経た今も人々の骨董の見方選び方に影響を与えているわけです。この影響力の強さがどこにあるかといえば、やはり彼らが物にまつわる事柄を言葉に残したからだと思います。小林が折々の随筆で骨董にまつわることを書き、それに付随する事を青山二郎が書き、その伝説を補塡するかのように白洲正子や野々上慶一が書いた。もはや神話の登場人物かのごとき酔湖や虫歯も、彼らの言葉なくしては、ここまで世に膾炙することはなかったはずです。やはり「言葉」と「物」なんだな、との思いを新たにしつつ牛王宝印に目を移しましょう。

牛王宝印の版木というのも、古民具・古民芸ブーム(1970−1980年代)の折には、大いに欲望を惹起したアイテムであったはずで、実際こうして honogra で目にすることができるのも、かつてこれらに夢中になった先達コレクターたちの熱量の余韻に小松さんが感応したからでしょう。古美術雑誌のバックナンバーの古民具特集にはたいていこうした版木が載っていますが、今それを見ても、過ぎ去りし日の思い出、というか思い出でさえない人の方が多いのが現状だと思います。自分も含めて。お店に十ぐらい並ぶ版木は20年かけて小松さんが集めもので、倉庫から見つけ出せなかったり、請われて手放したものもあるそうですが、それを差し引いても費やした年数に見合わない数です。ですから、売ってしまうと売買した事実が帳簿上に残るだけで、それきりになってしまう。「いまなぜ牛王宝印なのか」ということの機縁というか必然性を摑まずして商いすることに、忸怩たる思いを小松さんは抱いているのです。牛王宝印を扱うことの現在性とは何か。これは多分に時々の気分に左右されるところが大きいのかもしれませんが、その気分を確固たるものとして留め置き、世に提示するのは「言葉」です。牛王宝印の版木をめぐる言葉が、小松さんのもとに到来し熟したとき、それは懐かしの古民具としてではなく、いままさに発見されたかのような鮮度をもって人々の前に姿を現すことになるだろうと思っています。このたびその機を得たものとして世に出るのが、この連載の1~2回目で取り上げた埴輪の残欠です。2月23日より神楽坂一水寮で展示即売会が始まります。いまどきの感覚では扱いあぐねるような量の埴輪の山を、一つ一つ蔑ろにせず、ていねいに選り分け、編集された一群です。酒器に比べたら遥かに不要不急の物ですが、来る人たちはその中にそれぞれの酔湖や虫歯を見出したらいいと思います。展示用の冊子のタイトルには、前所有者の廣瀬榮一氏の編纂した発掘調査報告書の序言から取って、「手向け草」という言葉が添えられました。



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