
8 李朝白磁とデルフト白釉

今回坂田さんが採りあげた朝鮮王朝時代の白磁は柳宗悦が、デルフトの焼き物は利休の跡を継ぐ茶人たちがその美を「発見」し評価したモノとされている。利休(利休については歴史学的な評価が定まっていないこともあり、ここでは個人というより侘茶人の象徴的存在として扱う)、柳、そして坂田さんは、それぞれの時代において、日本の美意識の価値基準に挑み、揺るがし、変革した。その動機の切実さについては本ブログの第2回に書いたとおりだ。今回は古物(骨董・古道具)の視点から、この3人が変えたものは何か、利休、柳から坂田さんに引き継がれていったものは何か、を見ていきたい。
固定化された価値基準はジャンルの流動性を滞らせる。ダイナミズムを失ったジャンルは緩慢な死に到る。新しいモノの流入によって価値基準が変動するということが少ない古物というジャンルにおいては、既にあるモノの中から新しい価値を「発見」する=作り出すことによってジャンルの流動性を回復するほかない。
例えば秦秀雄とその周辺は、骨董ヒエラルキーにおけるピンキリという価値基準の中で、キリの中にピンを「発見」しようとした。それは骨董への参入のハードルを下げたという意味では流動性に貢献したと言えるが、既存の価値基準を認めている限り、あくまで身内の遊びの域を出るものではなかった。
利休、柳、坂田さんのそれは、皆が良いという既存の価値規準に挑戦し、あらたなモノの価値を打ち出そうとするものだった。そのために彼らは、良いとされているそれぞれのモノにこびりついた意味、用途、歴史、由緒、といった主観的・内面的な要素を引き剥がした。そうすることで全てのモノは対等に無価値なモノそのものとして横一列に並ぶ。あらゆるモノが無価値になるということは、それぞれに価値を付与し、序列化してきた権威自体もその根拠を失い、無力化されるということである。そうして権威の後ろ盾を失ったモノたちを、おのれの新たな価値基準によって再序列化していった。
モノから既成の文脈を奪い、あらたな文脈を与える。その出発点には文脈を失ったモノ、モノそのものがある。モノそのものには物質的側面、形、色、線、手ざわりという感覚に依拠する客観的・外面的な要素からしかアクセスできない。
感覚に依拠してモノを見る。骨董屋のテクニックとしてみたとき、センスさえあればそれはそんなに難しいことではない。それぞれの色やかたち、質感のみを考慮して採りあげ、バランスよく配すればよい。ようは補色効果のようなもので、白いモノは黒い空間に、黒いモノは白い空間に置けばよい、ということに過ぎない。モダンなものは古民家に、古民藝はホワイトキューブに。照度を下げて感覚の入力を抑えるのもコツだ。客観的な感覚の不足を人は主観的な想像で補おうとする。想像を誘導するのも店主の腕前というところか。買われるのはモノではなくイメージなのだ。しかしここで導かれるイメージが既にあるもの、既存の権威、他人の価値基準に依拠するものでしかないならば、感覚によるモノ選びは、所詮どこかの誰かの感覚=センスを後追いするものでしかない。河井寛次郎の言葉のごとく、なぜそれを選ぶのか? に問われているのはセンスではなく、おのれはどう生きるか? なぜ生きるのか? という思想なのだ。「ええモン喰って、ええべべ着て、ええ車乗って」というのは人間の動物的欲望、感覚であって思想ではない。利休、柳、坂田さんには言葉があり、思想があった。それはどのようなものだったかを批判的に検証しなければならない。批判がないということはそれらを権威として受け入れることだからである。権威に立ち向かった彼らにとってそれは不本意なことだろう。
利休が生きた時代はそれまでの秩序や権威が武力や金という実力の前に崩壊していく過程にあった戦国時代であった。大陸ではとっくに廃れ、かすがいで無様に継ぎなおして返された抹茶椀をありがたく「御物」としたエピソードのように、中華帝国を宗主国といただいた日本がその文明を必死に後追いしていた姿は、ジーンズやコーラにあこがれた戦後日本のざまを思い起こせば想像に難くない。そうした唐物一辺倒のきらびやかな書院の茶の貴族趣味は、成り上がりの戦国武将たちにとっては憧れであったと同時に気に障るものだったに違いない。そうしてあらたな価値基準=権威が必要とされていた実力至上主義の時代に、もう一つの新興勢力であった町衆、利休が提示したのが、絢爛豪華とは真逆の、侘び寂びという価値観であった。朝顔の茶会のエピソードに見られるケレン味たっぷりのはったりをかました演出はいかにも戦国武将好みだ。
「ええモン喰って、ええベベ着て」という戦国武将たちの動物的欲望=センスに相反する禁欲的な侘び寂びというテイストが受け入れられた背景には、富の蕩尽こそが権力の誇示であった室町幕府に対し、あらゆるリソースを武力に投資しなければならない武将たちにとって都合が良かったという側面がある。それは富が蓄積ではなく流動することによって増殖するという資本主義の黎明期でもあった。軍事力と経済力を握った武将と町衆というブルジョワジーが国内では室町幕府の君臣関係をひっくり返したのと同様に、海外においては父とも兄とも仰いだ中国や朝鮮に対して下克上を試みるためには「日本とは何か?」という自意識の確立が必要になるのであり、中朝の先進的な文明文化のどうやっても勝てない豊かさ、完璧さに対峙した時、自分の中には貧しさ、不完全さしかなかったのであって、それを逆手にとって「日本とは何か?」のアイデンティティとしたのだ。したがってそのレスイズモアの思想や歪みや汚れ、傷をも良しとするその後の茶道的趣味の背景には、豊かさ、完璧さへのコンプレックスとルサンチマンがあり、巧拙に対する恣意的なダブルスタンダードを伴う文字通りの歪みがその核にあることは以降の日本文化を考えるうえで常に留意されなければならない。それは300年後に書かれた谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の中だけでなく、柳や坂田さんの中にも生き続けている。
中華文明一辺倒だった日本がそのように自我に目覚め始めたきっかけは、ポルトガルやスペインといった西洋文明との接触があった(これを「南蛮文化」と呼んだところに中華思想の残滓が見える)。中華文明に対するオルタナティブとして西洋文明があり、巧緻な唐物に対するオルタナティブとして稚拙なデルフトがあったのである。利休は完全さに対して不完全さを相対的な貧しさ、弱さと見、それを徳とした。それは省察的な禅の影響と同時に勃興する資本主義の要請に従ったもので、西洋においてはそれまでの華美かつ中央集権的なカトリックに対して質素さ(なぜなら富は蕩尽されるのではなく再投資されなければならないから)と個人主義を旨とするプロテスタントが資本主義を担ったことに準ずる。稚拙さを良い、とする利休の価値基準をフォローした茶人たちが珍重したデルフトは、まさにそのプロテスタント国であるオランダからもたらされたモノだった。
利休切腹の翌1592年、日本は遂に究極の下克上として宗主国である中華帝国の征服を目指し、朝鮮半島に攻め入った。日本の敗退に至るまでの6年間、朝鮮半島は酸鼻を極める被害を被った。日本軍は争って利休が良しとした朝鮮の文物を略奪し、また略取された多くの朝鮮人の中にいた陶工たちは萩、唐津、薩摩、伊万里、壺屋など、利休の跡を継ぐ茶人たちが良しとし、また後の民藝運動家が日本の手仕事の美とした焼き物を作らされることになる。国土を蹂躙され陶工を連れ去られた朝鮮本土の作陶技術は劣化し、歪んだ器胎、粗末な釉薬、稚拙な絵付けによる焼き物が生産されることになるが、それら中期の作品を民藝の愛好家たちは無学な手による無垢な作品と称揚する。彼らの頭からはすっぽりと抜け落ちているが、朝鮮王国中期の焼き物の稚拙さが一体何に、誰に起因するのかは、日本人は決して忘れてはならないことではないのだろうか。
敗戦後、徳川独裁政権によって反動的な封建体制が復活する。西洋文明との接触によって室町幕府が、対外侵略によって織豊政権が崩壊した教訓から、徳川幕府はオルタナティブの可能性を排除すべく鎖国政策をとり、それは西洋の膨張政策が一定の完成をみたタイミングということあって265年ものあいだ続く。しかし18世紀の産業革命により再び激化した植民地・資源・市場獲得競争に日本は巻き込まれることとなる。利休の次に新たな日本の美を提唱することになる柳宗悦が生きた日本は、倭奴国が光武帝によって冊封された紀元57年以来の中華文明至上主義を弊履のように捨てさり、西洋文明に乗り換えようとしていた過渡期にあった。〈亜細亜東方の悪友を謝絶する〉とした「脱亜論」が発表された4年後の1889年に柳は生まれた。
産業革命によってもたらされた西洋の工業化文明は、人間と自然を機械と資本の飽くなき欲望の奴隷とすることで成り立つのであり、その発展と軌を一にしてそれに叛旗を翻す動きも起こっていた。資本家に対する労働者の革命を訴えたマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』は1848年(柳誕生の41年前)、絶え間ない人間の搾取による絶え間ない資本の増大という構造を暴いた『資本論』は1867年(同22年前)に発表されている。日本においては西洋式大規模工場である富岡製糸場が1872年(同17年前)に開業し、本格的に工業化社会に突入していく。柳自身が憧れ、その恩恵を享受していた西洋近代文明によって日本の人間と自然が搾取されていくという矛盾。それは科学技術において進んだ西洋に対して劣った東洋(の中の日本)が抱く憧れと反撥という矛盾であった。柳の思想はそうした時代の相克を背景に育まれていった。
〈一つの藝術の構成は種々なる要素を招いている。然しその中で基調となるものが三つある。第一は「形」であり、第二は「色」であり、第三は「線」である〉(柳宗悦「朝鮮の美術」 1922年)
事物をその物質的側面に即して見る態度は、近代西洋文明によってもたらされた自然主義に発している。しかし白樺派である柳は近代による人間や自然の疎外を問題視する反自然主義の立場から、物質=モノそのものに対してあらたな文化的意味を付与していく。柳は工業化社会に取り残された無垢な民衆が生みだすモノに美が宿る、という「美しい」ストーリーを歌いあげた(もっとも、無学な民衆を選良である民藝運動家が指導する、というもう一つのストーリーはそれほど美しくはなかったかもしれない)が、それは人間をたんなる歯車の一つにしてしまう機械工業的資本主義に対抗し、手仕事の中に人間の全体性を取り戻そうとする試みだった。柳の手仕事礼賛はアーツアンドクラフツ運動的な反資本主義としての意味のほかに、その稚拙さ、不完全さを日本の美意識のアイデンティティとした利休のそれを継承しているようにも見えるが果たしてどうだろうか?
〈美が線に支配せられているとは、それが強い形を欠くと云う事を裏書きしている〉(同)
「形」を中国、「色」を日本、「線」を朝鮮の美術の物質的特徴とし、それぞれが強さ、楽しさ、淋しさをあらわしているとする柳は、中国の完璧さ、強さに対して朝鮮の細さ、弱さを対照しているが、そこに同時に西洋文明の強さと東洋文明の弱さをも重ね合わせている。柳ら白樺派が憧れたロダンの彫刻は、まさに西洋の先進文明の形=マッスであった。西洋の力強いマッス(量塊)に対して、東洋の細く弱い二次元の線。(*朝鮮という国号の表記について、朝鮮は1897年に大韓帝国と国号を改めているためそれ以降は韓国と表示すべきだが、柳がその美術・美学として語っているのは朝鮮王朝時代におけるものであり、また1897年以降の韓国についても王朝時代の美学は延長されていると捉えられているためこのたびは朝鮮と表記している)
柳が注目した朝鮮の美術のもうひとつの特徴、それは白だった。柳は朝鮮のひとびとが着る衣服の白を〈淋しい慎み深い心の象徴〉(同)とし、また「李朝陶磁器の特質」(1922年)という文章ではその白磁について〈同じ白さに於いても、あの冴えるような鋭い純白を示す明の磁器と如何に異なっているだろう。(中略)そこには内に沈もうとする心の現れがあるではないか〉と書いている。中国の〈冴えるような鋭い純白〉とは〈異なっ〉た朝鮮の白は濁った鈍い不純なもの、完璧さに対して劣ったものと捉えられている。
このように柳は朝鮮の白をその線と同じく弱いものとみなしたが、それは物理的なものというより、〈内に沈〉む、内面に向かうベクトルを指していることは注目すべきである。同文では朝鮮について、〈人々は他の国の存在を忘れたいのである。朝鮮は閉ざされた朝鮮であった。(中略)周囲に厚い籬をたてた。そうして迫る力強い風雨を避けようと求めた。外に出る事に民族の悦びがあったのではない。内に閉ざす事に生活があったのである〉としているが、これはまさに明治の開国まで鎖国政策の中で〈力強い風雨を避けようと求めた〉かつての日本自身の姿ではないか。柳は西洋文明に鞍替えした日本によって蹂躙される朝鮮に、強い西洋によって蹂躙される弱い東洋(そこには日本自身も含まれている)の姿を重ね合わせている。朝鮮の弱さは日本の弱さであり、柳はそれを肯定していない。西洋の強さは機械であり、それに対抗するために柳が「発見」したのが民衆の手仕事であった。強い機械の奴隷となった弱い人間の尊厳を手仕事による民藝の中に「発見」し「復活」させる。それは美しい夢だったが、生活に追われ数をこなすためにあたまをからっぽにして手を動かし続けなければならない陶業や機織りの過酷な労働(それは柳が忌避した資本主義が強制する単純労働とどう違うのだろうか?)を、無学ゆえに無垢な民衆によって繰り返される無心な手仕事が生み出す無私な生活の美、と口当たりよく美化した柳の思想を無批判に受け継ぐならば、それは柳の独善もまた受け継ぐことになる。職人はただ仕事に集中したのであり、それは知識と経験の蓄積を背景に、よりよい生活への欲望を動機とした。無心を強制されてはいても、無学でも無垢でも無私でもなかったのである。真に無心であるなら機械のほうがよっぽど無心であろう。柳が欲したのは不完全さ、手仕事によるぶれ、である。柳は手仕事の不完全さを弱さとしてではなく機械には真似できない人間ならではの強み、と見た。完璧な機械には作れないゆえに不完全なモノが強い、という逆説は利休のそれとは似て非なるものだ。
中国からは東夷、西欧からは物真似猿、アメリカからは12才の少年とさげすまれながらも、極東の島国である日本は常に文明の傍流にあってその風向きを伺い、時代ごとに強いとされた文明になびく事大主義をその国民性とした。その美の更新者たちもまた、それら先進文明との比較・対抗においてでしかアイデンティティを見出せない日本文化の問題から逃れることはできなかった。利休は雄大豪壮な中華文明を至上のものと崇める日本において高麗モノや国焼きを侘び寂びとして称揚した。柳は産業革命を成し遂げた西洋文明を至上のものと崇める日本において朝鮮や地方の手仕事を民藝として称揚した。では大量生産大量消費のアメリカ文明を至上のものと崇める日本において坂田さんが打ち出した新しい美とははなんだったろうか?
柳が雑誌『工藝』を創刊した1931年、日本は謀略と武力をもって中国東北部を占領、日本民藝館が開館した翌年の1937年には中国への全面侵略が始まった。貧しさが美しいとした利休の美学も、人の手仕事が良いとした柳の美学も、西欧の覇権主義を必死に後追いし、肩を並べられると錯覚した夜郎自大な日本の帝国主義の前には無力だった。優れた文明に対する憧れの裏返しであるコンプレックスとルサンチマンが噴出し、かつての宗主国に刃を向けた秀吉の妄想と同様に肥大した自意識と欲望は、近代における日本の宗主国ともいえる欧米に刃向かう戦争に突き進み、そして戦場となったアジアのほぼ全域に甚大な被害と苦しみを与えたのち敗戦に至る。
敗戦間近の1944年12月、アメリカの対日戦司令官マッカーサーは地獄送り、と歌った『比島決戦の歌』(西條八十作詞/古関裕而作曲)が発表されたわずか1年と7か月後には一転、日本占領軍司令官となったマッカーサーによる食糧援助を感謝する盆踊りが東京都下で開催される。さらに1年後の1947年8月にはマッカーサーを平和と愛の象徴と歌う『マックアーサー元帥杯大会の歌』(佐々木英之助作詞/大澤壽人作曲)が発表されている。恥ずかしげもなく強いものになびく事大主義はもはや日本のお家芸といってもいい域に達しているといえよう。
新たな日本の宗主国となったアメリカから日本は民主主義を与えられたが、それよりも日本の憧れのまなざしは自らを打ち負かしたその強さに注がれていた。1950年に勃発した韓国戦争は、日本に併合されていたことがもたらした米ソによる南北分断が原因でありながら、文字通り血を分けた同族同士が殺し合うその戦争は日本の経済復興の起爆剤となり、垂涎であった強いアメリカによる大量生産大量消費文明の後追いが推進されることになる。ブログ第4回「花を生ける」で述べた、坂田さんが闘った日本の〈ふつう〉とは、そうした日本の事大主義がもたらした他国への莫大な被害と、それを省みることのないお気楽な無関心の上に成り立ったものであり、坂田さんの美学もまた、そうした記憶や怨念の上に蓋をして見ないようにすることへの後ろめたさと共にある狂躁的な繁栄の中で育まれていったことは留記したい。
朝鮮王朝時代中期の瓶の白について〈科学的なモノサシでは測れない深さ〉とし、またデルフトとともに〈その美しさの発見は日本人にしか出来なかったし、今でもそうだろう。品物の技術的完成度の高さや装飾性が、美しさの最大の構成要素と考えている世界からは、この発見は出て来ない。だから、ギリシア・ローマやイタリアルネサンス至上主義的美術史からは見えて来ない世界なのだろう〉とする坂田さんは、まさしく中華文明・西洋文明との比較において、技術的完成度が低く、華やかな装飾がない、歪んだ、濁ったモノを日本の美とした利休や柳以来の美学の系譜にある。しかし坂田さんは今回の文章をこう結んでいる。
〈日本で国宝や重文になっている様な茶碗を、地中海の乾燥した強い光の中で見ると、割れてゴミがたまっていて汚い、という彼等の見方も正しい。そしてその茶碗を僕達の、四季のある、湿った、障子を通した柔らかい光の中で見ると何とも美しい、ということも事実だ。だからオモシロイ〉
四季も障子も今の日本からは失われて久しいがそれはさておき、日本の美も西洋の美もそれが置かれる環境に左右される相対的なものに過ぎずそこに優劣はない、という客観性は、先の屈折したナショナリズムからは自由なようにみえる。美は相対的なものという坂田さんの余裕は利休や柳にはなかったもののように思えるが、それは戦国時代、軍国時代という権威主義下に生きざるを得なかった利休や柳に対して、戦後民主主義下の、そして経済的に恵まれた時代であったからこその余裕なのかもしれない。利休や柳の説く美は殺伐とした時代を背景に、いわば国を背負った政商や特権階級としての立場から発信されていて、それらはいずれもまがりなりにも民主主義下にあった〈僕達〉の生活とはかけはなれたものだった。では利休、柳が「発見」してきた日本の美学に対して、坂田さんの新しい「発見」とは何だったか? 坂田さんはその店名にも掲げた「古道具」によって、アメリカの消費文明、バブル経済が押し付ける強い生活スタイルに対抗しようとしたのではないだろうか。
古物の世界において古道具は古美術や骨董に対して劣ったモノとされている。あえてそれを店名に掲げた時点で坂田さんは利休や柳と同様、反権威に立つことを宣言した。坂田さんはノコギリやうなぎかきを道具としてではなく「古」道具として売っていた。道具とは役立つもの、ツールのこと。しかし「古」くなることで道具の有用性は弱まり、用に適さなくなる。使えない道具などというものは生産性と効率を至上とするこの資本主義社会において文字通り用無し・役立たずとなるがその反面、有用性などという余計な属性を失ったモノはその物質性という本源において固有性、唯一性を強くするモノそのものとなる。それは用を為さないがゆえに大量生産の、古びるという手間と時間のかかる固有性を帯びたがゆえに大量消費の対象から外れたモノである。そうしたモノに対峙し、選択する行為とは、労働とその報酬としての消費を生存と幸福追求のための義務である(ARBEIT MACHT FREI!)と大衆を洗脳して大量生産大量消費に駆り立てる資本主義のスペクタクルに呑み込まれない、おのれの人生を生きること、を選択することであり、そうした生きるための具としての古道具を生活にとりあわせることによって誰のものでない〈僕達〉の生活こそが美となることを坂田さんは目指したのではないだろうか。その意味で古道具は新しい生き方を創るための道具となる。
坂田さんは朝鮮王朝の白とデルフトの白に、弱さに美を見た利休と白に内に向かうベクトルを見出した柳を重ね合わせ、交差させた。柳が否定的にとった〈内に沈〉むということを肯定的にとらえれば、それは自己を見つめ、他に頼らずおのれとして在る、ということになる。古びることによって固有の傷やシミを獲得した白磁の瓶と白釉の皿は唯一のモノとなり、おのれ一人として立つ。そうして読み直されたデルフトの白釉は坂田さんの美学を象徴するモノとなった。それはその後の日本の骨董界に多くのフォロワーを生んだだけでなく、かつて利休、柳、そして日本がその偉大な文明にアンビバレンツな感情を抱いた中国大陸にも伝わっている。機能優先の社会では役立たずの劣った弱いモノ、しかしモノそのものとして強いモノ、を生活に採りいれることで、権威の強さに対し個人として強くなる、とする坂田さんの思想は国境を越えて受け入れられている。
中華文明に対するオルタナティブとして茶人が採りあげたデルフトと、西洋近代文明に対するオルタナティブとして柳が採りあげた朝鮮王朝時代の焼き物を出会わせる、その選択からは、日本の美を更新した先達の、権威に対抗したその勇気とモノに対する真摯な眼を讃えながら、彼らがモノに付与した思想をのりこえて、自分自身のあらたな美を切り開いていくんだ、という坂田さんの心意気があらわされている。利休や柳を継承するということは、権威とは正しいものなのか、強さは正しいものなのかを問い、既にある価値観をゆさぶり、他の誰かではなくおのれが良いと思うことを主張するその批判精神を継承するということだ。坂田さんは彼らの思いを批判的に継承したのである。批判されることによって先人の思いは光をあてられて甦り、その精神は生き続ける。坂田さんが定義した美もまた批判的に継承されなければならない。坂田さんが目指した古道具、〈僕達〉の生活を検証しなければならない。継承すべきは坂田さんが良いとしたモノではなく、なぜ良いとしたのか、その挑戦と思考なのだから。

坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社 soko3F(神楽坂)
