9 アフリカの通貨




古本屋のウィンドウに飾られた『贋造通貨』という本が気になった坂田さん。ポケットにあった1万円札を眺めるとそこには「日本銀行券」と書かれていた。これじゃ商店街の割引券や馬券と変わりゃしない。〈どうも僕達はこの券の発行元の日本銀行や、いや、そのバックにいる日本国というものに絶大な信用を置き続けたらしい。が、近頃はそれも少し下降気味とか〉。こんなもののために〈働きすぎて命を縮めることなんかありませんヨ〉、ということでペラペラの紙幣に対して紹介されるのは堂々たるアフリカの鉄貨。

〈立派な美術館や文化会館が多くあることよりも、日常生活品が美しい方が、何だか文化国家に近く、信用出来る気がしている〉。海外の有名美術館からネームバリューのある作品が鳴り物入りで招聘され、それを目当てに多くの人が押し寄せる美術館や、市民の需要より建設ありきで造られるハコモノ行政の文化会館よりも、日常生活品こそ美しく、と説く坂田さんは大きなものによって一律に押し付けられる価値観ではなく、小さな個人の〈一人一人違う〉選択を大切にする社会こそ文化国家なのだ、と言いたいのだろう。しかし〈だから毎日使わなくてはならないお金のデザインはとても大切なもの。新しくお金を発行する時は、是非そのデザインコンペをして美しいデザインのものを採用して欲しい〉というのはどういう意味なのだろう? お金こそ〈日本国という〉大きな権威が一律に押し付けてくる価値観の最たるもの。それを〈僕達〉の〈日常生活品〉と同列に並べることに抵抗はないのだろうか。坂田さんがお金に求める美しさとはどういうものだろう? もしそれが用の美、というものであるなら〈美しいデザインを採用〉というのは矛盾している。いわゆる用の美とは、用に徹したモノに宿る人為なき美という意味なのであって、コンペによって採用されるようなものではないはずだからだ。では美しいお金とはどういうモノなのだろう? 〈ポケットから一万円札を出して子細に観察してみた〉坂田さんに倣ってお金について調べてみよう。

美しいかどうかはさておいて、存在感のあるお金、といえばヤップ島の巨大な石貨にとどめをさすだろう。それはあまりに大きいので持ち運びできず道端に置かれたまま、中には運搬の途中で海の底に沈んだまま所有権が主張されているものもあるという。つまりそれらは所有権が移転してもモノとしては移動せず、ただ置かれた場所に在りつづけ、道行く人が見るたび(または海の底に存在し続けるその姿を想像するたび)に大したものだ、とその所有者を称える、そんな役目を担っているのだろう。

原始社会における富とその移転の概念について研究したマルセル・モースの『贈与論』によれば富とは実用的なものというより名誉や地位などの権威を象徴するものであり、またそれらがよってきたるところの神や自然、前所有者の霊的な力が宿っているために所有し続けることは持ち主に禍いをまねくのだという。ゆえに富はババ抜きのジョーカーのごとく贈与と返礼によって頻繁にやりとりされ、ときにはポトラッチという破壊行為によって蕩尽される。貨幣はそのような象徴としての富を目に見える実体として顕現させるモノなのだから、ヤップの巨大な石貨や坂田さんが紹介している175センチもあるアフリカの鉄貨のように、稀少性があり容易に棄損され得ない物質、モノとしての力強い存在感を備えていなければならない(これはブログ第5回で引用した、橋本倫さんが定義する藝術の条件と一致する!)。交換に便利なツールとして均一で大量生産がきき、使い勝手がよい「軽い」紙幣とは真逆に、大量には生産が出来ず、使い勝手がわるい「重い」モノでなければならないのだ。もしそこに美が備わるとするならばそれは用の美ではなく反・用の美というべきであろう。

貨幣(硬貨)は日本政府が発行し、紙幣(日本銀行券)は日本銀行が発行する、と定められていることから、紙幣が経済活動における媒体に過ぎないことに対し、重くかさばる金属製の硬貨にはヤップの石貨やアフリカの鉄貨同様、権威の実体化という意味が付与されていることがわかる。貨幣には国家の霊力が宿っているのだ。これは硬貨を棄損した場合貨幣損傷等取締法という国法で処罰される一方、紙幣の棄損を罰する法律はないというところにも表れている。

ところで今回のタイトルである「アフリカの通貨」、文中採りあげられている『贋造通貨』という本(おそらく昭和8年に出た山鹿義教という人の書いたもの)の両者ではなぜ「通貨」という呼称が使われているのだろう? 通貨とは流「通」または「通」用する「貨」幣ということではないか。ならば流通が目的でないはずのアフリカの鉄貨や当然通用すべきではない贋金を通貨と呼ぶのは正しくないのでは? しかし「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」第2条第3項によれば、〈通貨とは、貨幣及び(中略)銀行券をいう〉とあり、現代社会においては貨幣も銀行券も流通・通用を当然の前提とする、用に徹した道具として通貨と総称するようだ。通貨は金属から紙、通帳に印字された数字、そしてネット上の電気信号へとますます軽く、道具としての有用性を高めていくのと引き換えにその存在感を希薄にしていく。

造幣局と日本銀行のウェブサイトにあるQ&Aコーナーをのぞいてみたら、これまた坂田さんではないが〈自分の無知に呆れてしまった〉。例えば先の法律の第7条によれば〈貨幣は、額面価格の20倍までを限り、法貨として通用する〉とあり、貨幣(硬貨)は一度に同一額面のもの21枚以上は受け取りを拒否されても仕方ない、なんてことを初めて知った。逆に紙幣については日本銀行法によると無制限に「強制通用力」を行使でき、もしも受け取りを拒否した場合は、〈13世紀中国においては皇帝の紙幣の受領拒否は死刑とされていたほか、フランスのアッシニア紙幣の受領拒否に対する刑罰は20年間の拘禁または死刑〉という例さえあるという(『金融研究』23巻法律特集号/2004年8月/日本銀行金融研究所刊)。ほかにも明治18年に発行された大黒天が印刷された1円札は今も使えるのだとか、使えなくなったお札はなんとトイレットペーパーにリサイクルされているとか、お札に印刷されている番号は組み合わせの一巡により黒から褐色、千円札はさらに紺色に変わっているなど知らなかったことばかり。

しかし読んでいくうちに感心ばかりしてもいられなくなる。〈円の由来はなんですか?〉という問いには〈いろいろな説がありますが、当時の資料がないためはっきりしていません〉と、結構重要なことがあやふやだったり、〈貨幣の市場価値について教えてください〉という問いには〈造幣局は貨幣を製造する機関ですので、貨幣の市場での価値等については、把握しておりません〉とにべもない。日本の通貨制度史上の大事件である敗戦後の新円切り替えについては、〈5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施しました〉と、これまでの親しみやすい語り口に対して急にわかりにくい官僚文体になるのだが、事実は軍事費で膨れ上がった国の借金(戦時国債)をちゃらにするため、旧円を新円に切り替えるという名目で国民の収入を強制的に預金させたうえで最大90パーセントの財産税をかけてこれを収奪するという、日本国が自らの借金を国民の財産によって相殺した、まさにお金に対する信頼を根本から裏切る大事件だったのであって、この奥歯にものの挟まったような記述からはどうもことの重大さに気づかれないようにしたい、という国家側の意志を感じてしまう。まさかそんなことがまた起こるというわけでもあるまいに……(2026年現在の対GDP比政府債務残高は1945年のそれを遥かに超えているが)??

お金は、それさえあればなんでも手に入れることができる魔法の杖だ。ところがなぜこの紙切れやモニターに浮かぶ数字がなぜそれほどの力を持っているのか、そのからくりは曖昧だ。あるいはお金の本質はその曖昧さにあるのかもしれない。1万円は1万円分の何とでも取り換えることができることになっている。ところがその根拠はどこにもない。国家が「強制通用力」を保証する、なんていってもそんなもの実際の取引現場ではこれっぽっちも役に立ちはしないことは全骨董商が知っている(「気にいらねえなら置いて帰ってくれ!」)。お金の価値とは、お金には価値がある、という思い込み、坂田さんのいう〈日本国というもの〉への〈絶大な信用〉にしかない。再び日本銀行のウェブサイトを見てみよう。今度はやけに舌の回りが良いところがまた無気味だ。

〈この不思議なおさつの特徴は、それ自体ただの紙片であり、しかも金属とも何とも引換えてもらえないにもかかわらず、誰もがなぜか「ああ、それが手に入るなら交換に応じてもよい」と考えてしまうところにあります。そこには「私が欲しいものを売っている人は、必ずこのおさつを受け取ってくれるはずだ(だから私はこのおさつを受け取ってよいのだ)」という、人々に共有された信念があるわけです〉(日本銀行ウェブサイト/決済・市場>決済システムの概要>「第2章 決済の道具 2おさつ」より)

! 坂田さんがポケットから取り出したのが日本の紙幣でなく米ドル札だったなら、そこには「IN GOD WE TRUST」と書かれていることを発見しただろう。紙を信じること神を信じるがごとし。浄土宗が運営しているWEB版新纂浄土宗大辞典には「知らぬが仏、見ぬは極楽」という語句がこう解説されている。

〈真実のありさまを知ってしまったり、見てしまうと、苦しみや悩みも起こり、腹の立つこともあるが、知らない、見ないでいれば腹も立たず、憎んだり、怨んだり、心の乱れることはない、ということを譬えた言葉〉

真実は信心の敵。信じる心に根拠はいらない、いや根拠を追求すれば信念が揺るぎかねない。曖昧なまま、考えず感じるままにしておくのがコツなのだ。子曰く「由らしむべし、知らしむべからず」と。

貨幣をもはや名誉や地位の象徴ではなく、支配の道具(ラインの黄金!)とする国家の立場から言えば、その有用性を持つ通貨、特に紙幣(金属の価値もない銀行券)は美しくあってはいけないのだ。通貨のデザインは見たり考えたりする気持ちを起こさぬよう、わざと醜いものにしなければならない。神の尊顔を見てはならないのと同様、本質的な価値、その根拠がない通貨は、見ずとも「有難い」とおしいただき、崇め奉らせておけばよいのだ。信じるものは救われる。預金が凍結されるまでは。

翻って骨董はどうだろう? 慧眼の目利きともなれば箱さえ見れば中味を見ずともその価値がわかるそうだ。しかし目利きでない僕達も、キャプションを見て絵をみないように、箱書きや権威の説明を信じ、モノそのものを見ないで有難がってはいないだろうか。だから、坂田さんはお金のデザインは見るに値する美しいものであらねばならない、としたのだろう。見るということは対峙するということであり、それは考えることに繋がる。大きなものから与えられる価値観を信じる、ということは見ること、考えることを他人任せにするということだ。自分の判断をどこかの誰かに預けてしまう人々が構成する国は権威主義国家となるだろう。〈毎日使わなくてはならない〉〈日常生活品が美しい〉ということは、人々が毎日の生活の中でそれらを見ること、毎日の生活について考えることに繋がる。他人の眼ではなく自分の眼で見、自分のあたまで考える〈一人一人〉によって、〈基準というものは一人一人で違うだろうし、又違うところがオモシロイ〉と言える〈文化国家〉が建設されることを、坂田さんは「古道具坂田」から夢みていたのだと思う。

写真は「ひとりよがりのものさし」連載時(『芸術新潮』1999年1月号−2003年5月号)に撮影したフィルムです(筒口直弘撮影)。掲載図版とは別カットの場合もあります


前の記事へ



坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫soko内(神楽坂)


トップへ戻る ▲