11 西アフリカの土偶




今回語られているのは坂田さんにとって重要な転機となったある出来事。「古道具坂田」は真の意味でここからはじまり、それがなければ「ひとりよがりのものさし」が書かれることもなかっただろう。

店を始めてしばらくした頃、〈一見して、オシャレだし、出来そうというか物が見えそう〉な夫婦がやってきた。やがて坂田さんが招かれた夫婦の家は、〈現代美術の作品も多く、見事な空間構成。(中略)壁にはボソボソの板や鉄の工芸品。奥には弥生の土器らしき物も見える〉。その「作品」の作者を尋ねると、〈「奈良朝の古材と江戸期の鍬」〉とのこと。あっけにとられる坂田さんに放たれたのは〈「人はその人の感受性の範囲でしか物は見えないもの。だから音楽や映画や食事等を楽しんで、自分の感受性を柔らかくすることが大切。本を読んで勉強しただけでは、とてもとても」〉という言葉だった。〈その夜、静岡から東京までの帰り道、まだ若かった僕は車を運転しながら感激で震えていた〉

青柳恵介氏が「古道具坂田」を取材した「骨董屋さんの主張」(『別冊太陽 日本骨董紀行5』所収)によれば、〈夫人は「こういうのって勉強しても駄目なんじゃないの」と答え、「映画を見たり、一所懸命に遊んだり、音楽を聞いたり、舞踏を見たり、建築に興味を持ったり、そういうことが大切なんじゃないかしら」と言われ、坂田さんの足はふるえて来た。のみならず、帰りの車でハンドルを握る坂田さんの手はカタカタ音をたててふるえていた〉とある。〈坂田さんの心の天窓はこの夫婦によって大きく開かれた。骨董はもっと自由であってよい。洋服の話をする如く、あるいは車の話をする如く、もっと軽く骨董の話をしたっていいではないか、と。そして昔の茶の世界にも、そんな愉しみがあったのではあるまいか。利休は骨董と現代美術を混ぜて一座を組み立てたではないかと坂田さんは思うのだった〉

この夫婦との、そして夫婦がもたらしてくれた概念との邂逅は、当時の坂田さんにとって必然の出会いであった。「骨董屋さんの主張」にはその頃の「古道具坂田」の様子がこう描写されている。〈開店早々は無我夢中に動き回りガラクタ同然のものが多かったけれど様々なお客さんが足を運んでくれた。(中略)仕入れられるものは余り選り好みをせずに店に転がしておくと、人はそれぞれの趣味に応じて品物を拾い、金を落としていってくれた。ところが二年位たってから坂田さんは次第に己を主張し始めた。(中略)「坂田」という店に坂田さんの体臭がしみ出てきた。それと同時にみるみる客が減った〉〈いつまでここで店を張っていられるものか、まるで先行きの目途も立たず、茫然と背を丸めて火に手をかざしていた〉

無我夢中の先の人生が見え始めた坂田さんの、それはまさに存在を賭けた問いであったろう。世にあまたある古物商の中にあって「古道具坂田」は他の店とどう違うのか? どのような店にしたいのか? おのれはどう生きたいのか? 骨董とは、古道具とは、モノとは何か? 商売と割り切りさえすればそのような問いを発せずに一生を終えることができるかもしれない。しかし坂田さんにとって骨董(古道具)は商材以上の何ものかだった。そこに既に答えはあった。坂田さんが求めていたものはモノではなくそのむこうにあるものだったのだ。骨董もまた音楽や映画、舞踏や建築、食事や服や車と同じもの、人間を人間(ホモ・ルーデンス)たらしめる遊び、つまり生きることに密接して共にあり、その人を構築するモノ。夫人のアドバイスそのままに、骨董を「分かろう」、あるいは感受性を磨こうとして、映画や音楽、舞踏や建築に親しまんとする人がいるかもしれない。しかし大切なのはその先なのであって映画や音楽や車、そして骨董は、生きるとは何か? 世界とは何か? を問うための入口に過ぎないのだ。世界に向かって開かれる可能性を持った窓、または門を壁と見誤り、開門を問わずしてモノに淫することを古人は「玩物喪志」として戒めた。それに気づいた坂田さんにとって骨董(古道具)はもはや生きるための「手段」として売買される商品ではなく、おのれを含む世界に到達するための「道具」となった。世界は開示するに値する者にしか自らを開示しない。それは対峙し、問う者である。おのれの存在を賭けて問い続けた坂田さんに、世界はその門を開いた。

〈その夜、静岡から東京までの帰り道、まだ若かった僕は車を運転しながら感激で震えていた〉。それはなんと幸福な夜だっただろう! 坂田さんの高揚が振動となって伝わってくる。震える、とは言語化できない衝撃に身体が、存在そのものがゆさぶられること。言語や理性や常識といったおのれのちゃちなフィルターを飛び越えて世界から生の発信を受け止める、世界と直接つながる経験のことだ。稲妻の一閃が暗闇を裂いてすべてを照らすように、坂田さんはその夜世界をかいま見、世界からかいま見られた。世界という巨大な存在が、自ら思い込んでいた閾値を超えて侵入し、自分の限界が拡げられることの衝撃に、坂田さんの身体、存在は揺さぶられ、震えた。

迫害者サウロが光に撃たれて伝道者パウロになったように、坂田さんは骨董ディーラーから〈一座を組み立て〉る人になり、「古道具坂田」は一期一会の茶席となった。そう考えるとなぜ人々が「古道具坂田」を特別な場所と感じ、そこでの坂田さんとの対話をかけがえのない時間であると感じていたのか合点がいく。「古道具坂田」を訪れた客は、モノを挟んで主人と相対する。そこで坂田さんはモノを通して、しかしモノよりもっと大事な、そのむこうにある生きるとは何か、世界とは何か、を伝えようとしていた。客にとってそれは畢竟、世界と、そしておのれ自身と向き合う時間であった。モノを介して世界に出会い、ゆさぶられた坂田さんが、モノを介して世界をゆさぶる側になったのである。

坂田さんが震えたその夜から35年後の2009年4月、『芸術新潮』「パリと骨董」特集号が発刊される。「ひとりよがりのものさし」の連載に始まり10年間にわたって坂田さんとタッグを組んだ菅野さんは、この特集を最後に『芸術新潮』を離れる。菅野さんとの最後の仕事に坂田さんが寄稿した文章のタイトルが「ゆさぶる」だった。それはいわば菅野さんと『芸術新潮』読者に贈る、坂田さんの最後のテスタメント(遺言であり証しであり契り)であったといえよう。いや、「ひとりよがりのものさし」の一回一回が坂田さんの遺言だったのだ。世界に撃たれた者はその衝撃を伝える言葉を預かった者となる。「古道具坂田」での客との対話もそうであったように、その言葉はおのずと一言一言が遺言であった。「パリと骨董」号には坂田さんの寄稿文の外にも、ゆさぶる、ゆさぶられる、という言葉を見つけることができる。坂田さんの言葉は『芸術新潮』を共鳴させ、その振動はページを伝わって読者に伝わっていく。

そしてもう一人、世界に撃たれ震えた人の言葉を紹介したい。「古道具坂田」から西へ歩いた先にある古美術店「長谷雄堂」主人の長谷川雄一郎さんが、ある仏教版画との出会いを綴った文章だ。(「長谷雄堂」ウェブサイトに掲載。原文の改行は省略)。

〈はじめて、このお札を見せられたとき文字どおり身体が震えたことを覚えています。骨董屋として四・五年が経ち、モノを覚えていったと同時に少しづつモノにも飽きてきていた頃だったのでしょう。ぱっと見た瞬間、全体にあふれる呪術的威圧感。ある種のデーモニッシュ的存在に打ちのめされました。続いておとずれた、これはいったい創作版画なのか、薬の包紙なのか? 何モノなのかが判らない不安……。とにかく自分のものにしなければ、と震える手で包むのももどかしく買って帰ってきました。調べてみると、秩父札所の二十五番久昌寺の札。このグルグルしたヘンな物は閻魔さまの御手判ということで「こんな世界があったんだ」と。まさに開眼いたしました。陰陽に通じる黒白での表現。【印仏】や【摺仏】が修行であるように、同じ行為を何度も行う版画に通う宗教性。その魅力をお伝えできればと思います〉

1994年の「西アフリカの土偶展」、それはまさに今回採りあげられているのと同手のマリの土偶が並べられた「古道具坂田」の企画展であったが、初めて「古道具坂田」を訪れて以来、月に一度あるかないかのペースで通うようになっていた僕が、ふと足を延ばしたのが「長谷雄堂」であった。外からのぞくと置かれているのはすべてまわりの光りを吸収するような、かつオブジェというか何かに見立てて使うという言い訳が利きそうにないモノばかりのようだった。「古道具坂田」のモダンさとはまた別種の、しかしそれぞれのモノの存在の重さ、に似たものを感じて入ってみた。初めての客ということで好みを探るいくつかの質問に要領を得ない答えしか返ってこなかったからか、三島由紀夫と仲代達矢を思わせる野武士のような容貌の長谷川さんが出してきてくれたのが仏教版画、お札の束だった。神仏だか妖怪だか見分けのつかない稚拙で奇怪な像容が刷られたモノ、刷りつぶされてもはや壁に浮かぶシミにしか見えないモノ、カラスやヘビやハトが組み合わさって文字となったモノ、刷られた梵字のところどころが切り抜かれたモノには「薬として呑んだか」という店主の書付が添えられてあった。やむにやまれぬ人間の想いが生み出さずにはおれなかったモノ、その善悪聖卑愛憎美醜喜怒哀楽が渦巻く混沌の中から世界が目に見えるモノとして立ち上がっていた。それらは「古道具坂田」にはないモノたちだった。

坂田さんは、いや利休や柳も日本の美を刷新するうえで、モノにこびりついた古い価値観を洗い落とし裸のモノそのもの、つまりむきだしの世界そのものへ到達するために、おのれから遠い西洋というフィルターを必要としたが、お札は足元から、いやおのれの血肉の中からやってきた。思いもかけぬ方向からの衝撃に僕は撃たれた。長谷川さんは自らがお札に感じた衝撃を僕にも伝えたのだ。「古道具坂田」から「長谷雄堂」への道は僕にとってダマスコへの道であった。以来、僕は坂田さんからの言葉だけでなく、長谷川さんからも衝撃を受け取ったものとして、自分のたよりない細い道を、門はいくつもあるがその行きつく先は一つである、という夢遊病者のごとき確信をもって、ためらい、よろめき、歩いている。

写真は「ひとりよがりのものさし」連載時(『芸術新潮』1999年1月号−2003年5月号)に撮影したフィルムです(筒口直弘撮影)。掲載図版とは別カットの場合もあります


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坂田室
東京都新宿区矢来町71 新潮社倉庫soko内(神楽坂)


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