
11 本地仏(平安時代)

木彫の如来坐像で、作られた当初から漆箔等の装飾はなく、木地に簡素な彩色のみが施されていた仏像です。シラサビ(補修等の施されぬ、歳月を経た木肌の枯れ具合)が蒐集家には喜ばれます。この様な木地の仏像は「本地仏(ほんちぶつ)」と呼ばれています。「本地仏」とは、聞き慣れぬ言葉ですね。今回は、仏教美術の基本ともいえる、本地仏の生まれた背景「本地垂迹(神仏習合)」について書かせていただきます。
「本地垂迹」をご理解いただくには、日本に仏教が伝わる6世紀(飛鳥時代)からお話しを始めなければなりません。少々長くなりますが、お付き合いください。
自然を神と崇めた神話(神々)の国、日本に、朝鮮半島から仏教が伝えられたのは、今から約1500年前、飛鳥時代のことで、聖徳太子や蘇我氏、物部氏の活躍する時代です。仏教は国政の実権を握る皇族や貴族に崇拝され、治世の様々な分野にゆっくりと浸透していきました。聖徳太子建立といわれる法隆寺が建てられたのもこの頃です。
仏教伝来から約200年後、元号が天平に改められた時代、都(奈良)一帯で巨大地震や疫病が立て続けに起こります。それらの厄災を自身の治世(天を司る)力の無さからと悲嘆した聖武天皇は、仏教による国の加護を祈念し東大寺を建立します。東大寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」といいます。
東大寺建立と同時に日本各地に国分寺が建立され、「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」という経巻が奉納されました。「金光明最勝王経」は、四天王をはじめとする諸天が国を護り鎮める(鎮護国家)と説いた仏教の経典で、国分寺造営後の日本は、仏教が国教(日本の宗教)となり、僧は政の中心的な役割を担うようになります。
それまで日本には、各地で崇拝されてきた様々な神が鎮座しており、国家が推し進める仏教との融和が、急激に求められる事態となりました。壮大な神域をもつ社(やしろ)の一画に神宮寺と呼ばれる仏教寺院が建てられたり、東大寺建立時には、九州より八幡神が造営の手助けとして勧請(かんじょう)されたりと、神との融和が図られています。余談ですが、今でもお水取りの儀式では、国中の主だった神々の名が奏上されています。
各地で古代より崇拝されてきた神と、国教となり新たに崇拝された仏との政治的、社会的な融和策が進むにつれて、神(神社)と仏(寺院)との役割(境界)が曖昧となっていきました。政(まつりごと)が天皇中心であった時代から、摂政関白という貴族が主流となる摂関政治の平安時代に入ると、鎮護国家(国の護り)を主な役割としてきた仏教(信仰)の性質にも大きな変化が現れます。
仏教は貴族の庇護のもとで、個人(信者)の厄災を取り除く加持祈禱や極楽往生を願う供養等をとり行なう宗教へと、その姿を大きく変えて行きます。また、自然の力(霊力)を感得する山岳信仰とも結びつき、山や巨岩、滝等を神と崇める神道との境界(信仰における境)もますます薄れていきます。神とも仏ともつかぬ「蔵王権現(ざおうごんげん)」のような信仰が誕生したのもこの時代です。
本格的に神と仏の混在する時代が到来すると、両者の優位性が問われる事態が各地で起きたことでしょう。そこで唱えられたのが、「本来、日本古来の神々は仏が姿を変えてこの地に降臨したものであった」という、神仏一体論です。これが平安時代に生まれた「本地垂迹」という思想です。「本地垂迹」は、本地(日本)に垂迹(降臨)した、様々な仏が神と呼ばれたもので、根源(本来)はひとつという考えです。これが平安時代以降、明治時代の始めまでの約900年間、日本人の宗教観の基幹となり続け続けてきました。
その「本地垂迹」から生まれた仏像を「本地仏」と呼ぶのですが、駆け足の解説で、頭(理解)が追いつきませんね、続きは次回にしましょう。
*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
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