会期|6月28・29・30・7月1日(木金土日)
   7月5・6・7・8日(木金土日)
   7月12・13・14・15日(木金土日)
時間|13-19時
会場|工芸青花
   東京都新宿区横寺町31-13 一水寮101(神楽坂)
監修|松本武明(うつわノート)
出品|岩橋直哉(拙庵)
   牛抱幾久真(titcoRet)


講座|松本武明+岩橋直哉+牛抱幾久真|骨董の起源
日時|6月29日(金)19-21時
会場|一水寮悠庵
   東京都新宿区横寺町31-13(神楽坂)
定員|25名
会費|3500円
https://shop.kogei-seika.jp/products/detail.php?product_id=234






感覚の覚醒   松本武明


2016年に弊店(うつわノート)で「衝撃の美」という企画展を開催したことがあり、「骨董の起源」はその延長線上にあるものです。今回はその時の出品者である「拙庵」の岩橋直哉さんと「titcoRet」の牛抱幾久真さんのお二方による古物の展示販売会になります。お二人の選ぶモノは、一般的な骨董には当てはまりづらく、その多くが呪術、魔性、土俗など、無名の古人による祈りや畏れを形にした造形物で、未だ定義されない領域にあります。しかしこれらには過去の骨董価値を追認するのとは違った独自の視点があります。知識や視覚だけでは感知し得ない無形の力。元来自然界には認識できないものが溢れており、言葉で解釈できずとも、自ずと体は反応しているはずです。それを自覚できれば、お二人の選ぶモノの発する不可解な魅力も、体感的に受け入れることができると思うのです。美しさとは外形から得るものだけでなく、妖しさや痛みなど倒錯した鋭敏な感覚の先にも存在するでしょう。畏れ多くも工芸青花の場で「骨董の起源」を名乗るのは大いに憚られるのですが、骨董(あるいはアート)の愉しみとは肩書のある価値を追体験するだけではなく、自らを覚醒させる喜びでもあるのではないでしょうか。ぜひ岩橋さんと牛抱さんの不条理な美学に触れてみてください。

以下は、本企画のやり取りの中で拙庵の岩橋直哉さんが書かれた文章です。開催の主旨をお伝えするために掲載いたします。

〈僕にとって骨董とはアートや宗教、オカルティズムや歴史と並んで、世界と人間の神秘に触れその謎を探求する重要な手段のひとつです。骨董とはゴミ、すなわち本来持っていた価値や用途、意味や託されてきた思い、それぞれのものに付帯してきたストーリーが一旦全て失われたモノそのものの状態なのだと思います。蚤の市では古今東西真贋美醜巧拙聖俗善悪高低いずれも関係なく、ただそれぞれがむきだしのモノそのものとして並べられています。それらの中から何かを選ぶという行為は、フラットなモノそのものを自分のストーリーによって構築した世界の中に組み込むことにほかなりません。モノは選者のストーリーの中に新たな居場所を与えられ、そのストーリーを構成し、強化する要素となります。蒐集とはむきだしのモノそのもの、未だ名づけえぬ世界の断片を拾い集め、新たな世界を創造する作業なのです。何かを選ぶのも自由、選ばないのも自由。ただし選んだものは即その人の紡ぐストーリーをあらわにし、モノによってその人自身の世界が問われることになります。これが骨董というものの本質であり愉しみ方ではないか、と僕は思います〉

〈この骨董の定義を前提に、僕がモノを蒐める動機とは、不可視なもの、未だ名づけえぬもの、具象化されざるもの、あってはならないもの、がまさにモノとして目の前に現前しているということへの戦慄であり、それらのモノを通して不可知の世界へ到達しようとする人間の永遠の戦いというストーリーです。骨董市に行けば奇怪な姿をした神仏像に出会うことがあります。本来かたちを持たず名付けられぬ存在であるはずのカミの具体的な似姿を見て手に持って買うこともできるのです。その戦慄は、専門の仏師による、スポンサーにおもねり、儀軌に縛られ、古今の名作を参照した上に完成した作品よりも、不完全な知識と道具と技術でもって不器用にかたち作られたモノ、民衆仏と呼ばれるものの方に強く感じます。そこで重視されるのは美学的なバランスや外見的な見栄えの良さではなく生み出されずにはおかなかった強い衝動だからです。その強い衝動とは自らをとりまく巨大で不可解な世界に対する人々のもがき、葛藤、哀訴です。科学や哲学といった合理的な方法からはとりこぼされる不可知の部分に働きかけるこうした不合理な衝動は良きも悪しきも、また「善を求めて悪をなす~エズラ・パウンド」も、あらゆる衝動がモノとなって現前しています。これらの衝動は日々の生活のルーチンからは排除されがちです。俗を守るためには聖も賤も等しく遠ざけられねばなりません。美学史においても同じく常に何かが取り上げられるとき何かが意図的に排除されています。僕はその排除されるものに興味がある。正史では描き切れない世界と人間の謎をそこに見出すことができるからです〉(岩橋直哉)










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