撮影=高木崇雄(下も)

以前、とある研究会に参加して、「スニ・コンテンポレル」と呼ばれる、インドネシアにおけるコンテンポラリーアートの状況に関する報告を聞いたことがあります。インドネシアの諸都市において、2005年から2009年にかけて「アートブーム」が起き、それにともない、アートに関わる様々な業界と、業界への参加者が変化しつつある、という話でした。報告自体はとても良くまとまって興味深いものでしたが、なぜか違和感が残りました。

報告後の質疑応答の中で、他の参加者からインドネシアの先行事例として、中国のアート市場について例示があったのですが、個人的には「中国にスタジオを構えるベルギー人アーティスト」の話が象徴的でした。彼が北京郊外にスタジオを構える理由は、大規模な作品の製作にあたって人件費が安いから、だそうです。そういった環境で作られた作品が、世界各地において、無論インドネシアでも、高級ファッション誌である"Harper’s Bazaar"などが主催するアートフェアなどに出品され、高値を付けていく。会場は無論、リッツなどの高級ホテルや、それに準じた場所です。そしてその作品は、インドネシアにおいても顕著となってきた富裕層に売れてゆく。さすがルワンダ人を故意にツチとフツに分け植民地支配を行っただけの事はある、と嫌みの一つも言いたくなるほどの清々しいコロニアリストぶりではないでしょうか。

結局これでは、世界的にカネが余ってしまい、値上がりを求めて買えるものが無くなった状態で選ばれたのがアートであるだけではないかと思わされてしまうのです。ちょうど僕も同じ時期に、香港やアムステルダム、パリ、ロンドンといった街に複数回行く機会がありましたが、どの国、地域でも、やはり骨董屋の息子世代がコンテンポラリーアートを扱うギャラリーに店を変えたり、以前の店の隣にギャラリーを構えていたりと、従来の骨董屋通りの雰囲気が一変していました。そしてこの時期に日本でも数名の作家が各地のオークションにおいて高値をつけていたことを覚えています。ということは、結局「クールジャパン」など何処にも無くて、他の地域のコンテンポラリーアートと同じように売れたというだけだったのでしょう。そして、投資としてアートを扱う「投資家 Investor」、一方でカネの象徴性をアートの象徴性と混同してしまった「愛好家 Art Lover」が増えた、と。けれど、この両者は、他人の欲望を自分の欲望と勘違いしている、という点において、全く同じ根を持っています。

それゆえに、といっていいのでしょうか、例示される作品はどれも似通ってしまう。インドネシアの人が作ったのか中国の人が作ったのか韓国の人が作ったのか区別がつきにくい作品か、そうでなければ、「政治的な正しさ」の記号としてのローカリティを纏う作品ばかり。前者に関しては、2000年代初頭に日本において「セカイ系」と呼ばれたサブカルチャー作品群と同じく、ただひたすら「わたし」と「あなた」の関係性について表出するものであり、後者は、福岡なんかでも駅の近くによくある、おじさんたちが適当に使う居酒屋にあえてチェーン店であることを押し出さず、むしろ「わたしローカルですよ」といった顔をして「博多よかとこ亭」(ほんとにこんな名前の店があったらごめんなさい)みたいな名前をつけ、「新鮮市場直送!」などと手書きっぽい字で書いて刺身をプリント地の器に盛りつけて出す、明らかに「居酒屋コンサルタント」を雇いスタートアップキットでも使って作ったんだろう、と思わせる店と大して違いは無い。どの店も、そしてどの作品もクオリティが低い訳ではありません。ただ、そのクオリティを判断する基準が、皆同じなのです。その事にどうしても気持ち悪さを感じてしまいます。同様のものとして、近年日本を覆う「まちづくり」や「手仕事」への嗜好が挙げられます。「ローカル」を「グローバル」を補完する為の記号としてしか使わない、その「わかりやすさ」が同じなのです。しかし疑問に思います。「アート」や「ローカル」とはそんなにわかりやすいものなのでしょうか。

例えば、インドネシアという近代国家の成立の為に、スカルノたちによってもたらされたような(そもそも、それ以前に日本軍政下にもたらされたような)「近代美術」が良かったのか悪かったのかを決める事など誰にもできません。同じ意味において、「グローバル」という名の、カネの流動性を担保とした社会制度が、戦国期の茶道具のように、新しい価値として「コンテンポラリーアート」を「カネの届きうるローカル」に導入し、相互に交換しうる商品とする事についても、善悪の問題では語れません。「美術」というものが持つ政治性、経済性については、フーコーやブルデューなどに指摘されるまでもなく、「ある」のですから。

そういえば、スピヴァクは「グローバリゼーション」について「世界中に同じ交換システムを作り出して資本の移動を容易にすること」と定義し、その強さと分かち難い弱みとは、不均衡な世界に対して「いずれは均一になる」という嘘をつかなければならないこと、それが故に「(地域固有の)言語」に縛られた「文化的下部構造」に対して限定的な関与しか為しえないこと、と述べています。であればきっと、善悪ではなく存在する「制度=美術」を踏み越えていく「生」こそが「ローカル」であり、さらにいえば、地方の訛り、不均衡そのものとして存在し続ける「工芸」ではないかと思うのです。

だからこそ、先に挙げた報告は別にインドネシアに特異な現象という訳ではなく、「グローバル」な社会において起きるべくして起きる、流行としてのアートブームの一変奏である、と考えたほうがいいのでしょう。それによって報告としての質の高さがいささかも揺らぐものではありませんでしたが、報告者自身がインドネシアを「ローカル」であると想定し、そして想定したことに安住しているが故に、同じ時期に他の場所で起きた事象への眼差しが無かったのです。そしてその視点を欠いている事に対する自覚があった上で報告しているのか、いまいち伝わらなかったのかが、違和感をもたらした原因だったのです。

むしろ、インドネシアは未だローカルである。しかし同時に、1998年のアジア通貨危機を経て、政権の変化などがあり、グローバルな場ともなってしまった、と考えてみても良いかもしれません。社会制度の変化によって「インドネシアの美術」という「制度」と「場」もまた変容した。そしてなお、新たにもたらされた「場」を越えていくような新たな人材の輝きがここにある、と提示したほうがきっと魅力的です。そして、「ローカル」を軸に「コンテンポラリーアート」などの「制度」について再度立ち返り、踏み込んでいくことこそが、僕らには求められている、僕らが行わなければならないことだと思うのです。




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高木崇雄 takao takaki

「工藝風向」代表。1974年高知生れ、福岡育ち。京都大学経済学部卒業。2004年に「工藝風向」設立。柳宗悦と民藝運動を対象として近代工藝史を研究し、九州大学大学院芸術工学府博士課程修了。福岡民藝協会事務局・日本民藝協会常任理事。「青花の会」編集委員。
foucault.tumblr.com


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