といえば迷陽先生の言を俟つまでもなく、はるか唐宋の昔より筆墨硯紙と決まっているわけですが、僕自身は、なかなか此処に遊ぶ境地には至れません。和紙洋紙を問わず紙が好きなあまり、製紙会社で働いていた時期もありますし、暇な時の手すさびとして反故紙に九成宮醴泉銘や孔子廟堂之碑を臨書したりもするのですが、まさに今書いている、このような文章を記すのに用いる道具とはなし得ない。文人への道は遥かに遠い。

以前、産地の若い陶工を訪ねて仕事の様子を眺めていた際、水汲みや釉薬掛けは地元のホームセンターで買ったようなプラスチックのバケツや柄杓を使っていたりするのに、刷毛だけは傍で見ていてもはっきりわかるほど良いものを使っていたので、理由を尋ねたことがあります。曰く、他の道具は単に用を叶えられたら済む消耗品だったり、自分でも作れるものだけれど、刷毛は作れないし(筆だったら、濵田庄司は赤毛の犬のたてがみを上手く摘んで作ると調子がいい、ってどこかに書いてましたけど)、安物の刷毛だと思うように手が動かないんですよね、道具が悪いと却って道具の存在を意識させられるというか......、なので自分は刷毛だけにはお金をかけますね、そういえば、この地域の仕事のレベルが落ちたって言われることが時々あるんですけど、仕事のレベルが落ちたというよりも、仕事に本当に必要な道具の質を見極める基準が甘くなった、以前に比べて刷毛の制作を手掛けるような人も減ったので同じ値段で買える道具の質が下がっているのに、そのことに気付かない、ってこともあるんじゃないかなって思うんですよ、と。刷毛だって、届いたその時がいいわけじゃなくて、使い込んで刷毛先がすり減って手に馴染む、ちょうどいい時期ってあるんで、複数揃えて順序よくローテーションを組んだりしますよ、とも。なるほどね。

その言葉通り、焼きあがってくる刷毛目の皿の調子が良かったりすると、いい道具、身に添う道具というのは作り手の力を増してくれるな、ありがたいものだな、と思います。そして翻って自分にとって文章を記すという日々の手業に用いる道具、もっとも身に添う道具はなんだろう、と問えば、キーボードであり(20・21回参照)、テキストエディタであり、表記の変換を行うIM(Input Method)といった計算機環境かもしれません。これこそ僕にとっての「文房 n 友」です。硯は端渓か歙州か、といった話があるように、エディタにもかつてはEmacsかViか、今だとATOMやVSCodeなども加わった派閥争い、宗論もありますし、ね。

先日、ちょうど書籍を1冊脱稿したこと、また今回の疫病で空いた時間ができたこともあり、良いタイミングだと思い、久しぶりにエディタを変え、こまごまと設定を行いました。

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