撮影|高木崇雄
疫病の広がりにともなう様々な影響のうち、自分にとってかなり困ったことは、図書館が開いていないことでした。数ヶ月前に書き、提出した原稿のゲラが戻ってきて校正を行おうとすると、引用に使った資料が手元にないことに気づく。書籍は躊躇なく買う方ですが、ある程度の量がたまると地元の図書館に寄託する癖があり、手元に置いているのは、自分にしか意味を持たない書き込みに満ちて覚え書き帖と化した数冊、そして借りに行くよりももっておいたほうが早いという理由で選ばれた、引用頻度の高い、ごく限られた精鋭のみ。再開の時期は未定。してやられた、と思いました。

この悪癖は以前浅草に住んでいたころ、台東区立図書館で寄託を受け付けている旨の貼り紙を見て、稀覯本を除くほぼ全ての蔵書を寄託して以来です。どのような本を買っても、読んだのち一定量に達すると図書館の司書さんに相談し、寄託する。どうしてそういうことをするかというと、図書館に管理してもらえば、いつでも手元の計算機上から予約をかけることができ、しかも受け取りは近所の図書館の分室で可能となるから。返却も散歩のついでにすぐ行えますし。自分の図書に索引を付ける感覚で図書館が利用できるならば、図書館を自分の大きな本棚として扱えばよいと考えてしまったのです。マルクスだってレーニンだって、大英博物館図書室で原稿書いてたしね、と。そしてその為の仕掛けとして、僕と台東区立図書館の間にあった仕組みは、幸か不幸かとても優れていました。ちなみに僕はその後福岡に引っ越しているので、結局かつての僕の蔵書は台東区民のみなさまに使って貰っている、というオチが付いているのですが、まあそういうのも悪くない話です。とはいえ以後、ますます書籍を持ち続けることへの諦めは増し、福岡でも市や県や大学の図書館を同じように用いて過ごしてきたなかで、突如の臨時休館。地元に限らず、出張の際には国立国会図書館や早稲田の演劇博物館の図書室などで調べ物をしていたのですが、こちらも閉まってるし、そもそも出張できない。ひとまず国立国会図書館のデジタル化された資料などもあたってみましたが、近代工芸史にとって重要な大正末から昭和、戦前にかけての資料は、著作権の確認が行えないせいかオンラインだと公開されていない資料が多く、結局行くしかない。手元には調べたいことのリストが溜まっていくばかり。参りました。

つい先日やっと再開したので、予約を頼んでいた書籍を確保しましたが、では以後は手元に全ての書籍を置き、寄託はやめるか、と言われると、やはりそうしたくはない。理由としては「誰かとなにかを共有する行為はリスクである」という認識を自分自身に定着させたくないから。他者を、自分自身を孤立に追いやりがちな状況が続いていますが、自らこの状況を加速したいとは思えないのです。ゼロリスクなどあり得ない社会だからこそ、科学的な判断を行い、防疫と穢れの概念はきっちり区別して対処は行いたいし、きっと方策はあるはずです。

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