仕事で東京に滞在していたこともあり、さる8月4日、ビッグサイトで開催された “Maker Faire Tokyo” を訪ねました。この展覧会はテクノロジーを「手を動かし、つくる」ことを介してアートやクラフト、そして社会に結びつける「作り手」“Maker”たちが集うお祭りです。いわゆるモーターショウ的な大規模メーカーの出展よりも、個人や少人数のグループによる、完成度ではなくアイデアの鮮度を重視した展示が多いこと、こどもたちを積極的に受け入れ、積み木を組むような簡易さで科学的思考の基礎を身につけることのできる参加型のイベントが多いことなどに特徴があります。

会場ではまず、米国におけるMakerムーブメントの発信源、雑誌 “Make:”の編集長・Mike Senese氏による「共有することの価値(The Value of Sharing)」、ならびに情報科学芸術大学院大学 (IAMAS) 教授・小林茂氏による「テクノロジーの“辺境”」といった講演を聴きました。前者は、使い手と作り手の境界を越えて参加を促す気風、手を動かすコミュニティ、そして各自の試みを共有することが“Maker”たちの活動の基礎となっている、と指摘し、後者は「枯れた技術」が社会にもたらす影響について語りました。つまり、これまで安価な既製品に身体を合わせるか、さもなくば高価なオーダーメイドを注文するしかなかったような製品が、3Dプリンターや仕様の公開された小さなセンサー、深層学習プログラムなどといった、単純に扱え・安定して運用可能であり・普及することで安価となった「枯れた」技術の組み合わせにより、小ロットかつ安価に作れるようになる。ひいては、本来と異なる用途と結びつくことによって、介護や育児、環境保全や農業といった社会的課題への解決策を持続的に提示することが可能となる、と。確かにその萌芽が満ちていることを感じられる会場でした。

思うに、このような動きは「マイナスの産業革命」とも呼びうるのではないでしょうか。つまり、イノベーションと呼ばれる技術的な大波によって、これまで過渡的に用いられていた手法、技術、道具という「叡智を注ぎ込まれながらもすぐに役に立たなくなる機械、又は役に立つ時間の限られる機械(二俣公一)」が浚われていくことにより、これまで古いと思われていた、必然性だけで出来たもの、独自の体験・感覚を与えうるもの、つまり「枯れた」ものが取り残され、新たな視点で価値を見いだされるようになる。あるいはまた、道具が身体との結びつきを失わないままに、感覚を拡張することを可能にすることで、今まで閾値以下として拾えなかったノイズが拾えるようになる。ノイズを消すために用いられていた技術が、むしろ人馬一体となしうる道具を生み出す契機ともなる。これもまた、逆説的にイノベーションと呼びうるかもしれません。

とはいえ、製造革命万歳、これからは巨大製造業だけではなく、すべての個人(アマチュア、と呼んでも良いかもしれません)が自分のためのものづくりができるようになる、というのはいささか楽観的にすぎるでしょう。

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