かつて経済思想史を学んでいたおりに、その著作が肌にあう、ともっとも感じた人はジョン・メイナード・ケインズでした。ケインズ主義や新ケインズ主義が実践的経済理論として優れている、というよりも、ケインズが書く文章にしばしばあらわれる、ちょっとした揶揄いの気配が好きなのです。

たとえば古典派主義者たちが、長期的に見れば市場の働きが自らを調整し、どんな不況もいつか改善される、などと宣うのに対して述べた、“In the long run we are all dead.”(長期的には、僕らはみんな死んでしまってる)という言葉。嵐が過ぎればまた波は穏やかになるんだから舵取りなんか不要、そんなに心配だったら自己責任で対応すれば? とでも言わんばかりの古典派に対し、今、この災いの瞬間に人々を救えないのならば、僕ら(政府・中央銀行・経済学者)に存在意義なんてないでしょ、という強い意志を込めて、しかし軽く発せられる、この言葉。かっこいい。

ほかにも、代表的な著作『雇用・利子および貨幣の一般理論』に記された、 ”Unemployment develops, that is to say, because people want the moon”(失業が生まれる理由、言ってみればそれは、人々が月を欲しがるからだ)という言葉もなかなかぐっときます。風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話?、というか私、そんなに月、好きじゃないよ? と思われるかもしれませんが、ケインズがここで言う「月」とは、自分で作ることも誰かがその全てを独占することもできない存在への欲望を喩えたものであり、つまるところ、お金・貨幣を意味します。貨幣で買える商品を望むのではなく、欲望の象徴としての貨幣自体を欲望すること、人々の貨幣愛が過剰に高まることによって、貨幣の流通量は減り、市場において商品への需要が失われ、失業が生まれてしまう。やっぱり市場のメカニズムは古典派が言うように完全ではなく、時には失敗してしまうこともあるんだよね、と。小林賢太郎と片桐仁のユニット「ラーメンズ」のコント(第16回公演『TEXT』 2007年)において、競馬騎手の装束を纏った片桐仁が競馬新聞を広げつつ、「ジョッキーが欲しいのはねえ……安定。」と呟く一幕がありましたが、安定を求めるはずが、この上なく不安定な競馬に未来を託してしまう可笑しさと人の弱さ、「わかっちゃいるけど、やめられない」弱さを、自ら投資家として日々賭け金を積み上げていたケインズ自身も良くわかっている。だからこそ、人がどうしても抱いてしまう欲望の構造を簡潔に示しつつ、その逃れがたさを「月」に託したその言葉遣いの軽妙さに、読んでいるこちらもついつい笑ってしまう。そしてさらには、いやほんとに、貨幣が月だとするならば、暗号通貨なんていうデータ化された貨幣は、月を表象する月、まるで稲垣足穂が描くブリキ製の月だな、だからこそその姿は実物以上に欲望を掻き立ててしまうのかもしれない、などと連想してしまいます。

「お月様が出ているね」
「あいつはブリキ製です」
「なに、ブリキ製だって?」
「ええどうせ旦那、ニッケルメッキですよ」(『一千一秒物語』)

ただ、ちょっとまじめに受け取るならば、ケインズの言葉はまた、君自身の「月」との距離感はどうなのさ、という問いかけでもあるはずです。〈欲望を欲望する〉構造が徹底化された社会、欲望のベクトルが貨幣愛へと常に誘導され、集約されつつあるこの社会において、工芸店という市場の一構成員として、何を対価としながら店を続けているんだい、と問われている気がするのです。暫し考え込み、僕が店でなにを渡しているかについて客観視することはとても難しいけれど、こういうものを私は買っている、と欲望されたくないもの、というのは確かにあるんだよな、と思います。

たとえば、その一つが、「一生もの」です。売るときには、自身が一生つきあう覚悟もないくせに、高いものを売り込む口実として使い、買うときに、これは皆が認めたものなのだからと自分に言い訳するのに使う、自己防御と承認欲求を託されてしまうような、もの。そういえば、かつて西武百貨店のキャッチコピーに「ほしいものが、ほしいわ」(1988年)という言葉がありました。これは〈欲望を欲望する〉という構造においてケインズの指摘と重なりうる俯瞰的視点を持ちつつも、その前に置かれた「ほんとうにほしいものがあると それだけでうれしい それだけはほしいとおもう」という言葉と組み合わされることによって、欲望の主体を「私」に絞り込み、最終的に百貨店に置かれた品から「私」が「ほんとうにほしいもの」を見出すように仕向ける、という仕組みが含まれた、優秀すぎるほど優秀なコピーでした。とはいえそれから30年。もはや、ほんとうにほしいもの、なんてどこにも存在しないんじゃないか、とも思います。「一生もの」のような、かつて誰かが担保してくれていた幻想はすべて使い古され、擦り切れ、平板化した社会で、僕らは偶々手元にある道具とともに、ただ生き延びていくほかない。遠くの月に託すのではなく、目の前のもの、人と生きるしかない。

そんなことを思いつつ、少々かっこうつけて、先輩業者から求めた、弥生時代に作られた壺に、庭で摘んだ草花を入れてみる。早晩、草は枯れ、花はしぼむ。壺は残り、僕は長期的には、死ぬ。死んだのち、壺は誰かのもとに移っていく。もしくは、どこかで壊れ、土と還ることもある。では、この重なり合う長い時間のどこを切り取って、「一生」と呼ぶべきなのでしょうか。そして「一生」とは誰にとってのものなんでしょう。壺か、草花か、僕か。そうでなければ、壺を作った人か。そもそも、ふだん店で売っているような、陶工によって作られた小さな蕎麦猪口ひとつが、いったいどれぐらいの時間、その働きを全うするかなんて、わかるはずもない。家への帰り道で割れてしまうこともあるだろうし、もしかしたら買った人からさらに誰かに渡され、ずっとずっと使われ続けるかもしれない。ものの「一生」を定めることなんてどうやってもできっこない。僕はただ、この猪口と、これを使う人の先々に幸あれかし、と願いつつ、けれどもたんたんと出会い続けるものを、次の人に渡すしかない。月を仰ぎのぞみながらも、いささか縁遠い月に祈ることはない。僕らができるのは、目の前にあらわれた一つのものを誰かから受け取り、ものに厚く重ねられた時間を折込んだ「今」として、誰かに渡し続けることだけだなあ、と思うのです。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな


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