意外なところで出会う本、というものがあります。以前、ベネチアで人と落ち合う約束をして、相手が指定した、サン・マルコ広場の脇、ためいき橋からすぐそばの宿に泊まり、待っていたことがあるのですが、何日経っても相手がいっこうに到着しない。連絡もない。アドリア海を望むテラスで朝ごはん食べるのは楽しいけれど、これじゃ、夢待ち顔の旅寝かな、ならぬ人待ち顔の旅寝だよ、ということで、毎日ぶらぶら散歩していました。ジョルジョーネの『嵐』やカルパッチョの描く聖ウルスラを目当てにアカデミア美術館へ行ったり、ペギー・グッゲンハイムに行ってタンギー下手だな、と思ったりしてましたが、ある朝、パウンドやストラヴィンスキーの眠るサン・ミケーレ島に墓参りに行くことにしました。白い壁に覆われた、墓だけでできた静かな島です。

訪ねてみるとエズラ・パウンドの墓は簡素で、この街を歌った詩の断片でも記されているかと思いきや、名前を記した石板がそっと置いてあるだけでした。墓参りも済んで帰りの水上バスに乗った際、最初の停留所、本島側の船着き場で、お墓参りの人のために花を売っている幼い兄妹が目につき、ここで降りてリアルト橋の方に抜ければ近道かも、と思ったのが運の尽き、角を二つ三つ曲がったところで、あっという間に道に迷いました。そういえば、能や漢詩に興味があったパウンドは、謡曲『景清』の次第「消えぬ便りも風なれば、露の身如何になりぬらん」を、”What should it be; the body of dew, wholly at the mercy of wind?”と訳していて、いやほんとうに、どうしたものか、です。同じような井戸、同じような洗濯物が干してある広場をいくつか通り抜けていると、とある路地の奥に古本屋を見つけました。急いでるわけでもないし、まあ仕方がないからと入ったところ、古本屋というか貸本屋のような店で、住民や長期滞在の旅行者の慰みとなっているのでしょう、売り買いを繰り返して成り立っている、といった趣です。意外と若い店主に挨拶をしたあと、背表紙を眺めながら狭い通路を歩いていると、見覚えのある字が書かれた小さな本が見つかりました。『哀愁 川端康成』初版、昭和24年、細川書店刊。誰がこの本を売ったのだろうか、この街の大学には日本学研究所もあることだし、関わりある人の持ちものだったのだろうか、などと思いながら、頁をめくったところ、おさめられた短編の冒頭にこの一節が記されていました。

「あなたはどこにおいでなのでせうか。」

まったくその通り、あなたは、そして僕はどこにいるのでしょう。となれば、この本を買わざるを得ません。店主に帰り道を聞き(ずいぶん遠まわりして歩いてきたね、でも、ここに書いた道順だとすぐに帰れるよ、途中のこの橋のそばで売ってるジェラートおいしいよ)、お礼に船着き場で買った小さな花束を差し上げ、宿に無事戻りました。リアルト橋、アカデミア橋、大小たくさんの橋、しかも下を船が通るゆえに強い弧を描く橋がある街で、やはり橋の多い街、大阪を舞台とした『反橋』に出会う不思議さよ。爾来、どこにいても、この「あなたはどこにおいでなのでせうか。」で始まり、最後も同じ言葉を繰り返して終わる連作『反橋』『しぐれ』『住吉』は自分にとって離れ得ないものとなったのです。

内容はいつもの川端作品です。古典文学と骨董、女性、そして横光利一と菊池寛を撞き混ぜたような友人をめぐる話であり、随筆と私小説の間に虚実を混ぜた構成となっています。

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