先日、木工家の三谷龍二さんから、展覧会「弱さの工芸」の案内、そして本展に合わせて作成された小冊子をお送りいただきました。三谷さんが松本市内で運営する空間「10cm」において9月25日から10月4日まで行われるとのこと。添えられたお葉書の文面とともに、小冊子をゆっくりと、幾たびか読んで、あ、僕は三谷さんがやりたいことを誤解していたのかも、と思いました。これは、別に媚びているわけではありませんし、もちろん、憎まれ口を叩くつもりでもありません(ほんとうです)。

誤解の原因をよくよく考えてみると、だいぶ昔に遡ります。どうも、かつて同じく松本の市立美術館で行われた展覧会「素と形」に引きずられていたのではなかったか。中村好文・坂田和實・山口信博の三人が選んだ品々を展示し、小泉佳春によって撮影された図録が、NPO法人松本クラフト推進協会の名義のもと提示されていたため、これはきっと三谷さんを含むあのあたりのグループ、今で言う「生活工芸派」のマニュフェストのひとつなんだろう、と思い込んでいたのです。

いや、マニュフェストであること自体は間違いではなかったのかもしれません。ただ僕は、ちょうど美ヶ原高原に遊びに行った帰りみちにたまたま本展を見て、彼らはきっと、装飾を剥いだあとに残るもの、〈構造〉について語ろうとしているのだろうな、と見取ってしまったのです。そして、その文脈にそって僕は本展を楽しんだ。楽しめるだけの展示会であった。ただ、それは僕の油断だし、大きな過ちだったのでしょう。むしろ、あくまで彼らは、彼ら自身が望むマチエールのありようを表現し、語りたかっただけなのではないだろうか、と今では考えています。〈構造〉というとまるで本質的なものであるかのように見做されがちですが、結局のところは見えないところに潜む形而上的な存在に過ぎない。そうではなく、あくまで目に見える、手に触れられる表象に執着し続ける態度こそが三谷さんにとっては重要であり、本質なのではなかったか。普遍的な、永遠の美ではなく、個別性として、その時・その場においてのみ存在する微かな表情・感情の揺れに賭けようとしているんじゃないだろうか。

そのような理解のもと、届いた小冊子に記された品々を見ると、その賭け札はさらに積み上がっていることがわかります。日常に用いる生活の道具・器はほとんどみあたらず、オブジェと呼ぶのにもためらいが残るモノが恬淡とならんでいるだけ。これらはいわば「用」を捨てた工芸であり、同時にまた「文脈」を欠いた美術でもある。そういえば今年1月に行われた「青花の会・工芸祭」において、「『生活工芸』以後の工芸」というテーマ設定に対して出品者が提示してきたものが軒並み「オブジェ化」していることが塗師の赤木明登さんとの対談で話題になりました。その後、三谷さんと対談の内容について話している際に、三谷さんはふと、むしろ用がじゃまな時代が来ているのかもね、と呟いていましたが、今回の「弱さの工芸」を見れば、その呟きを自ら回収していることは明らかです。このように、あっという間に「生活工芸以後」を取り込んでいく「生活工芸派」作家の姿を見て、もしかして三谷さんは、かつて別役実が記したところの「わかりません一派」なのではないか、しかも「二重スパイ」なのではないかと考えるようになりました。「わかりません一派」とはなにか。別役実は次のように書いています。

〈ともかく、人間の文明史は、大きく三つに大別される。「神様」のみが発明されていた時代と、それに対応して「悪魔」が発明されていた時代と、そのそれぞれに対応して「裏切者」が発明された時代である。言うまでもなく現代は、この「第三の時代」に属し、この時代は、かのイスカリオテのユダの出現と同時に開始されている〉(別役実『犯罪症候群』 ちくま学芸文庫)

〈「第一の時代」なら(中略)「あなたはバラの花が好きです」という決めつけがあって、答えも「はい」しかない。解答者に選択の自由はないのである。


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