フィンランドから日本に来て、美術大学の修士課程で研究している若い方の訪問を受けました。研究テーマは「もったいない」。日本で育まれた「もったいない」という言葉を軸に、環境とものづくりの関係について再考する、そのために日本の手工芸品における「もったいない」の事例について調べている、といったお話でした。意欲に満ちた調査だな、と思いましたが、とはいえ、手工芸品だから自然が生み出す素材を活かした仕事、省資源で環境負荷も低い、みたいな話にはやすやすとは乗れないのも事実です。宙吹き硝子が一ヶ月にどれほどの化石燃料を使い、どれほどの二酸化炭素を排出するか、登り窯を一回焚くのにどれほどの薪を使うか、歩留まりの悪さはいかほどか。素材が自然に還るから、というけれど、その辺に捨てれば不法投棄、ゴミとして出せば焼却か埋め立てになるのも現実です。だからといって、うっかり資源を公的に管理して過剰生産を抑制する、といった計画経済的な話になれば、1937年から行われた国民精神総動員運動と変わりない。「パーマネントはやめませう」と何が違うのか、という話になってしまう。どうも手仕事と環境、という結びつきは耳にやさしい反面、やすやすとファッショに墜ちる危うさを孕んでいます。

では、あなたの仕事に関することで、なにがもったいないと思いますか? と尋ねられ、岡倉天心が『茶の本』でもったいないことを三つ記していたことなど思い起こしつつ(ひとつ、誤った教育の為に青年を損なう、二つ、鑑賞の俗悪で名画の価値を減らす、三つ、手際の悪さから茶を生かすことが出来ない)、僕がこたえたのは、優れた仕事が雑貨になってしまうこと、でした。

例えば、こぎん刺し。先日、とある会の記念品として、こぎん刺しの箸袋をもらったのですが、裏に当て布として革が張ってある。汚れが付着しにくいように、という意図でしょうが、こういう「使う方のことを思った一手間」を見るのはとても辛い。それは単に素材の取り合わせの悪さということだけではありません。麻地に綿糸で刺されたこぎんは模様であると同時に、津軽という寒い地域で唯一着用を許された麻布の布目を埋め、寒さを防ぐために生み出された技法です。一日どんなに作業をしても数センチしか糸目が進まないこぎんを、それでも刺したのは貧ゆえです。もとより麻布に革が張れるならば、そもそもこぎんが生まれることなどなかったはずです。その歴史を忘れ、道具としての使い心地を工夫してしまうことで、急にこぎん刺しが単なる装飾として扱われ、趣味のものになってしまう。

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