15 信楽檜垣文蹲 室町時代 





紅葉した葡萄の蔦と、山吹の小さくかわいい実です。器は「信楽檜垣文踞(うずくまる)」。図録等でお目にかかる中世古窯の白眉です。憧れはあっても出会える機会は限られており、出会えてもまた価格と云う高いハードルがありますので、蒐集家にとっての憧れ度は、当然ですが増すばかりです。私がこの壺に出会った折も、値は高く、私が普段扱う商いの範疇を遥かに超えていました。やり繰りに苦労し、何とか買いましたが、花器にと取り出して何度か花を試みても、いつも上手くいかず、また仕舞い込んでいました。

今回の花は、「買値でなら……」と、売却の決まった後に撮ったものです。ようやく様になった気がします。今までは価格(高価な品)と云う、目に見えぬ執着に囚われていたのでしょう。




八朗さんのこと その1


東急エージェンシーに移る少し前、デザイン事務所プラスアルファにいた頃のことです。戸田さんから久しぶりに連絡がありました。「高木君に会わせたい男がいる」と……。当時戸田さんは、永井一正が代表を務める日本デザインセンターで活躍していました。会わせたい男とは、戸田さんのもとに配属された、私と同年のデザイナーで、名を斎藤誠と云いました。初対面だった私には、やる気と熱気、負けん気に溢れたアクの強い男に見えましたが、戸田さんが言うには「高木君とよく似てるんだよ」と……。戸田さんからは私もあんな風に見えているのかと、内心では釈然としない気持でした。

その日の顔合わせはほんの数分で終わったのですが、しばらく経った頃、斎藤誠から「デザインセンターまで来てほしい」と連絡がありました。指定の時間に出かけて行くと、そこには数名の、同年代と思われる男たちがすでに集まっていました。彼らはすべて誠の呼びかけで集められたデザイナーやカメラマンでした。

「アーティスト集団を作りたい。この集団で定期的に印刷物を発行し、展覧会をやり、デザイン業界に我々(若い才能)があることをアピールしたい」。要約すれば、誠の話はそんな内容でした。集められた者たちは、デザイン界ではまったく無名です。もちろん私も斎藤誠も同様に、とるに足らぬ存在でしかありませんでした。ただ一人だけ、ニッカウイスキーの広告で前年にADC賞を獲得していた電通のアートディレクター、柳沢光二がいました。ADC賞は当時のデザイナーにとってはもっとも憧れの賞でしたので、私たちから見れば彼は、驚嘆すべき若手と云える存在でした。一人くらい名の知れた者がいないことには誰も見向きもしてくれないだろうと踏んだ、誠の思惑があっての人選かとずっと思っていたのですが、その後、ある機会に誠に訊ねたら、「あのニッカの広告が好きだったから」と言っていました。私の浅はかな勘繰りだった訳です。柳沢光二の他にはデザイナーの駒形克己、カメラマンの杉山守。二人は、誠とはデザインセンターで同期の仲でした。博報堂から修田潤悟、黒田征太郎デザイン事務所(K2)の土屋直久、それに私と斎藤誠の7人。

「集まった時間が7時半だから、『7:30p.m』(7時半)と云う名にしよう」。誠の宣言に誰ひとり反対反論する者もなく、7:30p.mの活動が始まりました。



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