25 時代網代小箱





濃淡2種の網代で編まれた小箱で、茶箱ほどのサイズです。何に使われたものかは知りませんが、海苔のおにぎりと沢庵を少々詰めて、春の野山へ出かけたくなる気分にさせてくれます。花は屋上で咲く山桜で、もう長くあるのですが、プランターの所為かあまり大きく育ってくれません。毎年日差しが暖かくなる頃に、数えられるほどの花をつけて春を告げてくれます。普段は手折ることはないのですが、小箱のために枝先を少しだけ切らせてもらいました。

山桜で思い出すことがあります。大分の竹藝作家生野徳三氏のお住まい(此君亭)を訪ねた折のことです。向かいに見える山の中腹に数本の山桜がありました。「良い場所に咲きますね」と云う私に、「あれは父と私で植えたものです」と笑顔で応えられ、驚きました。何とも贅沢な遊びをされたものです。




小林正樹監督のこと


日本映画学校を創設した今平(今村昌平)さんは、カンヌグランプリの『楢山節考』に続き、次々と高評価の新作を手がけていきました。その頃(1980年代)、私は東急エージェンシーを退社し、自身でデザイン会社を立ち上げたばかりでした。世はバブル前夜と呼ばれた好景気で、私のデザイン会社もこなし切れぬほどの仕事依頼が舞い込み、休む間のない忙しさでした。

日本映画学校も順調です。毎年、受験希望者が殺到し、希望しても入学の叶わぬ難関校となっていました。そんな忙しさの中で、今平さんが学校にひとつの提案をします。「著名な映画監督やスタッフ、キャスト、評論家等のゲストを呼んで、対談や講演をしてもらい、作品を上映するイベントをやりたい」と……。映画作りの深部に迫ると云うか、映画の背景をそれぞれの立場で、座談やシンポジウムの中で語ってもらうと云った内容の上映会です。

企画のタイトルは「日本映画の発見」。会場はテアトル新宿と決まり、期間は1週間、映画は日替わりで1回上映。日々、対談のゲストも替わります。昼頃にスタートし、終了は夜10時と云う、1日を通して行なわれる、なかなか過酷な上映イベントでした。

このイベントの告知や冊子の編集を任されました。発足して間もない日本映画学校が、外部に向けて初めて開催する大きなイベントです。その第1回に選ばれたのが小林正樹監督です。今平さんの「仕掛人の弁」と題した原稿がパンフレットに載っています。少々長いのですが、紹介させていただきます。
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仕掛人の弁   今村昌平

私はいつもそうなのだが、何か思い立つと甚だせっかちに直ぐ実行したくなる方だ。

昨年(1987年)夏、有楽町で、今村昌平全仕事というものを、一週間程やり、日頃こういうものにあまり参加しない裏方たちが、舞台に出て物を云ったりするのがひどく面白かった。

「全仕事」は、「全作品並びにそれを作った人」ということなのだが、特に「作った人」に関わる部分が面白かった訳である。

これは一回だけでは勿体ない。他の監督の「全仕事」も毎年やろう、出来たら新宿でと、その時思い立ち、私の学校の企画委員会で意見を述べた。

しゃべっているうちに「例えば次回は小林正樹監督とか」と何故か自然に出た。尊敬する松竹の大先輩なのだが、私は、彼の第一回の短編映画「息子の青春」にサード助監督として一本ついたきりなのである。

木下恵介系のスタッフで、助監督では故川頭義郎さんと松山善三さんが上にいた。私は何となく異質な、ソフトで真面目な世界にまぎれ込んだ思いで、 しかし楽しく働いた覚えがある。

何だったか忘れたが、前についた組での深酒、悪遊びの挙句、怪しからぬ病気に感染したらしく、小林組の初日にそれが出た。 私はわざと不敵に笑ってスタッフたちに「これぞ息子の青春」とふざけたが、全くうけず、白けわたった。「この組はマジメなのだ、下らぬ冗談なんか受けつけないのだ」と思い知ったのである。

まさかそんなことで「小林監督」と出たわけではない。

エリア・カザンを思わせるような、切れ味の良い凛冽な作風で、私は小林さんには可成り惚れているのである。「サムライ」だなあといつも思う。農民的な私の、異質なものへの憧れでもある。若い人たちに、もう一度しっかり観て貰いたいし、私も観たいと思っている。

学生時代に観た芝居に「ガラスの動物園」があり、そのヒロインに扮した文谷さんという女優さんが、何とも良かった。 ガラス細工の小さな動物たちを愛しんでいる。 ガラス細工のようにこわれやすい魂を持った少女なのだ。 後に彼女が小林さんと結婚したと聞き、さてこそと思ったものだ。「サムライ」 は「ガラスの少女」を愛するに違いない。

戦後十年、私は大学生から助監督という青春を送ったわけだが、この間に観た映画の数は五百本を下らない。その殆んどを新宿で観ている。

安酒呑み喰って青い議論にふけり、今日観た映画の監督をこき下ろし、闇市を彷徨し、 その事の全体がひどく充実しているような錯覚の日々であった。 「新宿」に寄らずには帰らなかったし、新宿泊りも多かった。「新宿」なくしては生きられないというくらい 「新宿」に埋没して暮らしていた訳である。

最近は新宿には若い人たちが出盛っているが、その顔をよく見ると、「新宿」でなくてはならないという顔は少ない。 渋谷でも原宿でも良いが、何かの拍子で新宿に居るという顔なのが、私には少し不満だ。「日本映画の発見」を機会に「新宿」の発見もして貰いたい。 仕掛人の切なる願いでもある。
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以上が、パンフレットに載る今平さんの全文です。映画少年だった私自身も、小林正樹監督の『切腹』を小学生で、『怪談』を中学生の公開時に観ており、強烈な印象を受けていました。今でも『切腹』は、私の中の記念すべきベスト映画です。憧れをもって観ていた映画の巨匠と会うため、私は、今平さんと小林監督の待つ日本映画学校へと出かけて行きました。



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