33 パナリ壺の陶片





琉球王朝時代に野焼きされた、大きさのある土器で、「パナリの壺」と呼ばれています。古くから蒐集家には人気ですが、なかなか市場に出てくることはありません。この壺は7年程前、久しぶりに市場に出てきたもので、大きな割れ継ぎがありましたから、私でも仕入れることができました。

店で手伝いを始めたばかりの橋本君に、「屋上に上げといて」と頼んで置いてもらったのですが、雨風のしのげる場所ではなく、野晒しの場に置かれてしまいました。あいにく、その日は夜から雨になり、一晩中やむことはありませんでした。翌日、屋上で、直し(継ぎ補修)が溶けて崩れている壺と対面することになりました。

情けないことになってしまい、ショックでしたが、まだ店に来て間もない橋本君が、土器の共直しが水で溶けるなんて事を知らないのは当たり前ですし、置き場所を指示しなかった私にも非があります。陶片に戻ってしまったものは仕方ないので、そのまま今日まで屋上の片隅で野晒しにしていました。

大きなプランターに植えてあった木(たぶん花桃)が枯れてしまい、処分にも困り、枯れ木のまま放置していました。ある日、気がつくと、根元から新しい芽が出ていました。この様に枯れた木や切り株の根元から新しい芽が伸びて成長することを「蘖(ひこばえ)」と云うのだと、何かの本で読んだことがあります。今はもうしっかりと根付き、若々しく成長している蘖にパナリ壺の陶片を添えてみました。壺のままであったなら思いつかぬ花だったでしょう。




小林正樹監督のこと その9


私と設計士は、田中絹代記念館の2度の挫折が深い徒労感となっていました。「田中絹代記念館はもう求められていないのでは……」。それが私の素直な想いでした。監督から「今日までの支払いを」と連絡があったのは、ゴルフ場での建設中止が決まって間もなくです。記念館が完成するまで、と、私はそれまで費用を請求してきませんでした。私と設計士の出張旅費と、遺品の撮影に支払ったギャラが主な出費でしたが、支払額はすでに100万円を超えていたのではないでしょうか。

私が請求すれば、それは監督自身が支払うことになります。潤沢な資産を持つ、経済(金銭)的に恵まれた映画監督など、日本には数えるほどしかいないでしょう。巨匠と呼ばれた小林正樹監督でさえ、決して豊かではなかったと思います。その監督に高額な支払いを請求するのは、監督の田中絹代さんへの敬慕と記念館設立への真摯な想いを強く知るだけに、心苦しいことでした。「記念館が完成した暁に……」と応えるべきだったでしょうし、私自身もその気持ちが強かったはずですが、私は「ハイ」と応えて請求書を送っています。撮影料、出張経費、拘束料、遺品リスト製作料、全てにわたっての詳細な請求書です。正確な金額は忘れましたが、総額は200万円に近かったと思います。監督からはすぐに全額が振り込まれました。

監督は、願っていた田中絹代記念館設立に頓挫し、さらに大きな出費まで強いられることになりました。晩年の監督にはまとまった収入はなかったと思います。その監督に対して巨額の請求は、どう考ても酷です。私は「田中絹代記念館は、もうこれで終わりにしましょう」と云う想いで請求書を送り、監督との交流はそれ以降途絶えました。

その後のことです。郷里に帰っていた私が新潟から東京へ向かう新幹線の中で、偶然に監督と出会いました。プロデューサーと二人でした。監督は会津八一の映画をNHKの企画で撮ることになり、新潟に出向いていたとのお話でした。監督は優しい笑顔で私の近況を尋ね、ご自身の近況を語ってくれましたが、声にはかつての力はなく、お疲れの様子が伺えました。監督が病後の身体をおして出かけて来たのだとは知らず、今の新潟では会津八一に関わる成果を探しても手応えがなかったのか、などと私は思っていました。しばらく言葉を交わし、私は席を立ちました。

この映画(ドキュメンタリー「会津八一の世界 奈良の仏たち」)は1994年6月に製作が企画され、2年後の1996年10月15日に放映されていますので、その間のことだったのでしょう。私が監督とお会いしたのはこれが最後です。映画が放映される直前(1996年10月4日)に、監督は亡くなっています。「会津八一の世界 奈良の仏たち」は、監督のご病気もあり、他の監督によってまとめられ、放送されました。私はその番組を観ていません。監督の急な訃報は私にも届いたのですが、通夜や葬儀には伺っていません。監督と私との関係は、あの請求書を送った時点で、仕事で関わった間柄に戻ってしまったのだと私には思え、監督のお見送りには出向けませんでした。

後日談|
田中絹代さんの遺品は、下関市によって、2010年、旧下関電信局電話課庁舎に開設された下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)に全て収蔵されました。小林正樹監督はその14年前(1996年10月)に亡くなっていますので、記念館実現を見ることはかないませんでしたが、夏の絹代邸で撮った写真やリストが記念館設立の準備段階で活用されたときいています。

『切腹』が好きだった私に、監督は折あるごとに撮影現場でのエピソードを語ってくれました。「今度、二人で観ながら話してあげましょう」と笑顔で言われましたが、それはかないませんでした。



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