3 閼伽桶 南北朝−室町時代





閼伽桶(あかおけ)は寺院で法具や華瓶等に差す浄水を汲み置く際に用いられた器です。本来、水に縁の深い器ですので、時代を経た閼伽桶の内側は深い水錆に覆われており、数寄者心を擽ります。代々、同じ形が受け継がれる法具ですので、時代の判断は難しいのですが、胴紐の細さと張りをひとつの目安としています。とはいえ数を見ていなければ、その違いは区別できませんね。判断には年期と経験が役に立ちます。センスと勘だけでは太刀打ちできぬ骨董もあります。

花材は蔦、店裏の通路に生えており、これからの季節は石仏や五輪塔に絡んで良い風情になってくれます。




ジュンのこと その1


十代の頃、私は地元の県立高校へは学力不足で行けず、列車で越境通学していました。早朝通学のため幼い頃から続けていた牛乳配達のノルマから解放され、交友範囲も広がり、タバコやパチンコを覚えたのもこの頃で、入学して夏休みが過ぎた頃には、すっかり不良高校生が出来上がっていました。

どのような縁で付き合いが始まったのか、もう覚えていないのですが、他校へ通う1年先輩と親しくなり、毎日のように会う仲になりました。先輩の名は純二、私はジュンと呼び、ジュンは私をタカシと呼んでいました。先輩後輩の垣根はなく、私の友達ともすぐ仲良くなり、いつでも、どこへ遊びに行くのも一緒です。「明日、どーする(何して遊ぶ)」が別れ際の言葉です。やがてお互いの家(部屋)に寝泊まりする日も多くなり、タカシが居なければジュンの所だろうと、仲間達にも認識されるようになっていました。

ジュンが知人とバンドを組み、ギターを弾くようになりました。傍らでそれを見ていた私ですが、バンドの活動機会が増えてくると、私には手持ち無沙汰の時間が増えてきました。ある日、ジュンが中古ギターをどこからか貰ってきて、「教えるからタカシもやれ」と誘ってくれました。ジュンの教えるとおりに、見よう見まねでコードを覚え、ジュンのギターに合わせます。バンドの練習のない日は、いつも私の特訓です。

ジュンのバンドは、高校卒業と同時に、新潟市内のゴーゴー喫茶(当時はライブハウスをそう呼んでいました)に出演するまでになっていましたが、私の方はサッパリ上手くなりません。「タカシはベースにしろ」とジュンに言われ、あっさりとベースに転向しました。プロのベーシストに怒られそうですが、当時のアマチュアコピーバンドでは、ギターが上手い順に、リード、サイド、ベースと相場が決まっていました。ベースをやり始めてしばらく経った頃、「バンドに入るか?」とジユンに訊かれました。知人のバンドでベースが辞めるので後釜を探しているとのこと。そのバンドはすでにライブ活動もしていると云うのです。

その頃の私は高校を卒業し、家業の牛乳屋を嫌々ながら手伝っていたのですから、渡りに船とばかりに、早速お願いして、メンバーにも承諾をもらえたのですが、大きな問題がありました。不良の溜まり場の様なゴーゴー喫茶で毎晩演奏するなど、母が許すはずがありません。「牛乳配達もちゃんとやる」と言っても、許しは出ません。不貞腐れている私に救いの手を差し伸べてくれたのは姉です。「私が毎晩車で送り迎えするから……」と。

こうして、姉の送迎付きバンド活動(ゴーゴー喫茶出演)が始まりました。前途洋々と張り切っていた私ですが、GS黄金時代はすでに去っており、アマチュアのコピーバンドというもの自体が大きな岐路に差しかかっていました。世の中はフォークソング時代となり、乱立していたゴーゴー喫茶も客足が減り、新潟でも次々と閉店、ジュンのバンドや他の先輩バンドも解散していきました。

私の入ったバンドのメンバーも、昼は他の仕事をしているアマチュアの寄せ集めなのですが、継続し、ゴーゴー喫茶やパーティー会場で演奏をしていたので、それらの興行を仕切るマネージャーがついていました。マネージャーは市内繁華街を縄張りとする暴力団の構成員であることを、バンドに入って間もなく知ることになりました。ギャラのほとんどはマネージャーの懐に入る仕組みであったようですが、私は演奏できる場があるだけで満足していました。

ブームの衰退と共に客足も減り、バンドも惰性で演奏をする日々が続いていました。ある日メンバーとエレベーターに乗ると、微かにシンナーの臭いがします。「工事してるのかなあ」と私は呑気なことを言っていたのですが、すでにメンバーの一人がシンナー中毒となっており、間もなくバンドの活動にも支障をきたすまでになりました。



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