
78 古備前筒水指
時代の箱に収まる古備前の筒で、黒漆蓋が添い、水指に仕立てられています。もとから水指として焼かれたものか、雑器を取り上げて水指としたのかは不明ですが、時代のついた使い込まれた肌味が好ましく、求めたものです。水指を使うほどの茶とはだいぶ以前から疎遠ですので、当初から花器にと思って買い求めました。
私は花器に程よい寸法で、味のある筒を見つけると、国や時代、陶磁、金属、木竹等、どんな素材でも無条件に反応してしまいます。様々な筒を花器に見立てて使ってみますが、経筒や茶席の竹筒(花入)の扱いはやはり難しく感じます。器の(背負っている)格の様なものがあり、軽い花しか扱えぬ私では太刀打ちできぬものなのでしょう。あれこれといじり回してはみるのですが、どうにも収まり切らず、結局は諦めて他の器に移し替えたりしています。
古備前と云えば、海揚がりの小徳利やお預け徳利、ヘラ削りの造形に凝った水指や花器が有名で骨董価値も高いものですが、この様な見過ごしてしまいそうな素朴な器にも、味わい(価値)を見出し拾い上げるのは、骨董蒐集の大きな愉しみと私は思っています。花は屋上に咲いたウワズミザクラで、子猫のシッポの様でかわいいです。
村山さんのこと その1
今から五十数年前、私は新潟の高校を卒業し、朝昼は家業の牛乳屋を手伝い、日が暮れるとグループサウンズ(ロックバンド)の一員として、ゴーゴー喫茶(ライブハウス)に出入りしていました。私自身は姉の運転するスバルサンバーの送迎(護衛)付きで、繁華街の誘惑からは隔離されたバンド活動を続けていましたが、バンドのメンバーは一人また一人と昼の退屈な仕事を辞めて不摂生な日々を送る様になり、やがてシンナーに溺れてバンドの練習やステージに顔を出さなくなる者も現れてきました。
ちょうどその頃、私は福井(三国)在住のアンフォルメ画家小野忠弘氏と知り合いました。自由勝手な絵を描くことと、骨董を探して買う楽しみを知り、活動への不安と不満の多かったバンドを辞めて、牛乳配達の他は、空いた時間には絵を描き、骨董屋をまわり、買えそうなものを探す暮らしを始めていました。車の免許も取って行動半径も広がり、骨董探しも新津や新潟市内から、水原、新発田、加茂、三条、長岡、遠くは県境を越えて会津若松までと伸びましたが、なかなか嬉しい(買いたい)品には出会えません。家業の牛乳屋で貰えるお金はわずかなもので、稼ぎのメインであったバンドも辞めており、さらに絵具代もかかります。骨董に使えるお金はせいぜい月に数千円から多い時でも1〜2万円でした。
そんな私の10代後半から20代前半は、戦後の骨董ブームと重なりました。骨董雑誌やムック本、蒐集家の著書も大小の出版社から次々と刊行され始めました。数千円の骨董本を買えばその月は骨董を買うお金がなくなります。本代と絵の具代、さらに美術館、博物館にも頻繁に通う様になっていました。骨董に夢中になりたくても、骨董屋へ行って骨董を買うお金がありません。本と博物館で眺めるだけが骨董の楽しみとなっていきました。「この中から、お金があって買うとしたらどれにするか」と骨董の本や雑誌から好みの(買いたい)1点を選ぶことが楽しみであり、慰めで、その品について語る所蔵者の弁が「モノを知る」唯一の勉強方法となっていました。秦秀雄、青柳瑞穂、青柳恵介、小松正衛、料治熊太、安東次男、青山二郎、白洲正子、土門拳等、さらに古民藝もりたのご主人森田直さんの著書が次々と刊行され、頭の中では、様々な好みの骨董が積み上がっていくのですが、それらを買うお金もそれらの品に出合う機会もほとんどないのが現状でした。
中世六古窯が本や雑誌で盛んに取り上げられる様になりましたが、新潟ではそれらに出合う機会はなく、私は山茶碗を探し(拾い)に常滑まで出かけて行き、何の収穫もなく空しく帰ってきたこともありました。新潟では山茶碗はもちろん、六古窯の壺を扱う店はまだありませんでした。私の頭の中だけに好みの骨董が駆け巡る悶々とした日々を過ごしていた頃です。「柏崎の村山さん」と、どこで誰に教えてもらったのか、もう忘れましたが、私はドライブを兼ねて“柏崎の村山さん”を訪ねてみることにしました。まだ高速道路やバイパスはなく、新津から柏崎へは、白根を越え国道116号線で目指します。寺泊や弥彦を走る国道116号線は柏崎へと通じていますが、新潟から柏崎へ向かうには、新潟〜京都間を結ぶ国道8号線がメインでした。8号線は交通量もあり混雑し、初心者の私には神経を使う道となります。それに比べ116号線は旧北國街道とも重なり、時折は江戸の面影を残す集落や建物を眺めながらのんびりと走る楽しさがありました。
初めて訪れた柏崎は、原子力発電所のできる前でしたので、落ち着いた風情のある静かな街並みです。まだカーナビや携帯電話もない時代ですので、村山さんを探すのもメモ書きの住所だけが頼りでした。道ゆく人に尋ねながら、入り組んだ小路の奥に目指す村山さんがありました。
村山さんの店に駐車スペースはなく、店前の道も狭く駐車はできません。小路を抜け大通りの脇に車を停めて(あの頃、新潟の地方では駐車違反の取り締まりはほとんどありませんでした)、あらためて村山さんに向かいました。店の前の小庭には、地蔵等の石仏や石臼、大きな水甕が置かれ、古い長屋の大きなガラス戸を引くと、かつての土間に簞笥が積まれ、私の背丈を超えて伊万里やくらわんか等の雑器がうず高く並べられて(詰め込まれて)います。人ひとり通れる幅を空けて、土間の左右に古陶磁が積み重なった簞笥が置かれています。土間の奥、居間へと続く上り框(かまち)辺りが主人の定位置で、長火鉢には湯が沸き、その前に来客用の簡易な腰掛けがふたつ置いてありました。土間から続く居間(広間)にも、船簞笥から書画の束、額、漆器、鉄瓶等、雑多な品がびっしりと置かれて(積まれて)います。雑然としていますが、一応の区分けがされている様子です。
私は初対面の挨拶もそこそこに、夢中で店のあちこちを探し回ります。何が欲しいのか、何を探しているのか、自分でもわかりませんが、ひたすら取っては置き、また取っては置きを繰り返していました。もう、宝の山に分け入った気分です。土間の(簞笥の)足元に何やら古そうな壺があります。屈んで眺めると、薄茶の肌の所々に剥がれた痕がありヤツレてはいますが、やや広めの口で安定した姿をしています。これこそが思い描いていた“中世の古窯”に違いありません。値を訊くと「1万円」との返事、私はようやく現実の“壺”を手にすることができた様です。
*この連載は、高木孝さん監修、青花の会が運営する骨董通販サイト「seikanet」の関連企画です
https://store.kogei-seika.jp/