13 木の杯 欧州18世紀頃 





私の友人と後輩数名が集まり、数年前から荻窪の高谷さんのお店で催事を始めました。名づけて「駄駄の会」。ダダイスト集団風でちょっとカッコいいネーミングです。行ってみると、古陶や仏教美術等の本格骨董から中世の西洋骨董、古いおもちゃやぬいぐるみまで、そう広くない店内が展示品で溢れていました。この雑多感が楽しく、「あっこれ」とひとつ好きなものが見つかると、次々に好きなものが目に入ってくるから不思議です。買い物を終え、さて帰ろうともう一度店内を眺めると、この木の杯が目に止まりました。値段を見ると(安い……)。「何これ?」と尋ね、しっかりと来歴を教えてもらったのですが、サッパリと忘れてしまいました。添えたひと枝は綿の花です。




デザイナー時代 杉瀬さんのこと その1


青年座の仕事をやり始めた頃、私はデザイン事務所のアシスタントとして採用されることになりました。24歳、ようやくデザイナーとしての歯車が回り始めました。私を採用してくれたのは宮田識(さとる)氏。優秀なデザイナーを多く輩出してきた「ドラフト」の創設者で、現在は広告業界の重鎮ですが、当時は「ライトパブリシティ」と云うデザイナー集団から離れて、自宅で個人事務所を始めたばかりでした。事務所は宮田さんと私の二人、営業もいません。知人から依頼された仕事(デザイン)をぽつりぽつりと二人で仕上げる日々でした。

私の仕事は版下作りなのですが、私はまだあやふやな指定原稿が作れる程度の経験しか持ち合わせていませんので、三角定規を使っての平行線やデバイダー、ロットリングの使い方も知りません。写植(文字原稿)の指定や切り貼りのやり方も宮田さんに教わり、何とか版下原稿を作っていました。あとの手直しは全て宮田さんがやってくれました。仕事は少なく、することのない日は宮田さんと近くの喫茶店へ出かけ、1杯のコーヒーで何時間もデザインやアート、骨董について語り合っていました。

1年ほど経った頃、事務所に出入りしていたイラストレーターが、「誰か仕事のできるデザイナーを知りませんか」と宮田さんに紹介を頼んできました。「ここにいるよ」と宮田さん。冗談かと思ったのですが、私のことでした。「ここにいても仕事がないし、高木君のためにもならないから」と……。

イラストレーターの紹介で新たに勤めたデザイン事務所は「プラスアルファ」。デザイナーは数名で、メインの仕事は富士フイルム、他にも様々なクライアントの仕事を引き受けており、即戦力で仕事のできるデザイナーを探していましたが、入って早々に私が任されたのは毎朝のコーヒー淹れで、やり方は社長の松田克己さんが教えてくれました。コーヒーの淹れ方はすぐに覚えたのですが、仕事(デザイン)の方は版下(印刷所に渡す原稿)も上手く作れません。「ひどいなー」と苦笑いしながら松田さんや他のスタッフが手直ししてくれる、家庭的な居心地の良い事務所への転職となりました。

プラスアルファに入ってしばらく経つと、大阪の野球用品会社の仕事を任されました。商品カタログと、月1回の業界紙用の小さな広告がメインです。その広告がADC年鑑と云う本に取り上げられ、クライアントの評価を得た頃、一般誌用の広告を作りたいとの注文が入りました。松田さんが「任せる」と云うので、思いついたのが漫画の『ドカベン』です。野球用品会社なので、『少年ジャンプ』で連載中の「ドカベン」をキャラクターとして使ってみたいと云う提案です。松田さんに伝えると、「ドカベン」を知らないとの返事です。そこで単行本で発行されていた『ドカベン』を渡しました。数時間で読み終えた松田さんが「面白い、これで行こう」と言ってくれ、クライアントを説得し、秋田書店や水島新司氏とも直接交渉をしてくれました。こうしてキャラクターとして採用の決まった『ドカベン』に更なる幸運が訪れました。『ドカベン』の映画化です。

相乗効果で野球用品会社の売り上げは倍増し、クライアントは機嫌が良く、私自身も一人前のディレクター気取りです。松田さんの自由放任主義は、ちょっとの成功で有頂天になり遊び惚けてしまう輩には逆効果でした。事務所は六本木にありましたし、世の中はバブル前夜のディスコブーム。酒の飲めない私ですが、毎晩の様に友人と連れ立ってディスコ通いです。深夜に酔った友人を連れて事務所に戻り、そのままざこ寝、朝出社してきたスタッフに起こされることも度々でした。やがて遊ぶ金が尽き、給料の前借りを頼むていたらくとなっていました。



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